カスティーリャ=レオン王国とは? わかりやすく解説

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カスティーリャ=レオン王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/18 15:44 UTC 版)

カスティーリャ王国」の記事における「カスティーリャ=レオン王国」の解説

1035年サンチョ3世死去すると、ナバラ王国領は4人の王子によって分割相続された。カスティーリャ相続した次男フェルナンド1世カスティーリャ王称し1037年にはレオン王ベルムード3世倒してレオン王位をも獲得する。こうしてカスティーリャ=レオン王国が誕生したフェルナンド1世死後分割相続されたが(1065年)、カスティーリャ王となった長男サンチョ2世弟や妹らの領地力ずく再統合すべく行動起こす。しかし、最後に残った都市サモラ攻囲中の1072年サンチョ2世暗殺された。その結果亡命していた弟のレオン王アルフォンソ6世同年カスティーリャ王位得て、再び両王国同君連合となったアルフォンソ6世1085年イスラム国トレド攻略し、さらに支配領域拡大させようとした。危機感抱いたタイファ諸国は、アフリカムラービト朝援助求めたムラービト朝はそれに応えて1086年に兵を上陸させ、サグラハスの戦いにおいてアルフォンソ6世率いカスティーリャ軍を撃破した敗れたアルフォンソ6世トレドまで撤退した決戦敗れはしたが、アルフォンソ6世イベリア半島中央部流れタホ川流域以北キリスト教圏とすることに成功した一方南部アル=アンダルスでは、ムラービト朝によってタイファ諸国併合され統一された。 アルフォンソ7世時代に、カスティーリャ王国からポルトガル王国独立した1143年)。また、ムラービト朝代わりムワッヒド朝イベリア半島南部統治する1157年ムワッヒド軍に包囲されアルメリア救援に間に合わずカスティーリャ帰還する途中アルフォンソ7世死亡すると、カスティーリャ=レオン王国は2人の息子再度分割相続され、サンチョ3世カスティーリャ王国フェルナンド2世レオン王国とに分かれたカスティーリャは、東隣のアラゴン連合王国とは条約国境定めていたが、西隣のレオンポルトガルとは国境線めぐって戦闘繰り返された。ムワッヒド朝との戦い進展せず一進一退繰り返していた。 このような状況で、教皇インノケンティウス3世は、キリスト教諸国間の争いをやめ、カスティーリャ王アルフォンソ8世指揮下で一致団結して対イスラム戦争邁進することを命じた。これに従いカスティーリャにはレオンポルトガルアラゴンナバラ各国の兵、さらにテンプル騎士団などの騎士修道会フランス司教率いられ騎士らが集結したムワッヒド朝のカリフ・ムハンマド・ナースィルも10万上の兵を集めキリスト教連合軍を撃ち破るべく北上する両軍1212年7月16日にラス・ナバス・デ・トロサで決戦し、キリスト教連合軍が勝利したラス・ナバス・デ・トロサの戦い)。この戦いによって、ムワッヒド朝イベリア半島での支配力失いイスラム勢力圏は再び小国乱立態となり、その多くタイファ同士主導権争い敗れたり勢いづいたキリスト教諸国餌食になり、滅びたその中でグラナダ首都とするナスル朝グラナダ王国成立する

※この「カスティーリャ=レオン王国」の解説は、「カスティーリャ王国」の解説の一部です。
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