カスティーリャ=レオン王国
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「カスティーリャ王国」の記事における「カスティーリャ=レオン王国」の解説
1035年にサンチョ3世が死去すると、ナバラ王国領は4人の王子によって分割相続された。カスティーリャを相続した次男フェルナンド1世はカスティーリャ王を称し、1037年にはレオン王ベルムード3世を倒してレオン王位をも獲得する。こうしてカスティーリャ=レオン王国が誕生した。 フェルナンド1世の死後も分割相続されたが(1065年)、カスティーリャ王となった長男サンチョ2世は弟や妹らの領地を力ずくで再統合すべく行動を起こす。しかし、最後に残った都市サモラを攻囲中の1072年にサンチョ2世は暗殺された。その結果、亡命していた弟のレオン王アルフォンソ6世が同年にカスティーリャの王位も得て、再び両王国は同君連合となった。 アルフォンソ6世は1085年、イスラム国のトレドを攻略し、さらに支配領域を拡大させようとした。危機感を抱いたタイファ諸国は、アフリカのムラービト朝に援助を求めた。ムラービト朝はそれに応えて1086年に兵を上陸させ、サグラハスの戦いにおいてアルフォンソ6世率いるカスティーリャ軍を撃破した。敗れたアルフォンソ6世はトレドまで撤退した。決戦に敗れはしたが、アルフォンソ6世はイベリア半島の中央部を流れるタホ川流域以北をキリスト教圏とすることに成功した。一方、南部のアル=アンダルスでは、ムラービト朝によってタイファ諸国が併合され、統一された。 アルフォンソ7世の時代に、カスティーリャ王国からポルトガル王国が独立した(1143年)。また、ムラービト朝に代わりムワッヒド朝がイベリア半島南部を統治する。1157年にムワッヒド軍に包囲されたアルメリアの救援に間に合わず、カスティーリャへ帰還する途中にアルフォンソ7世が死亡すると、カスティーリャ=レオン王国は2人の息子に再度分割相続され、サンチョ3世のカスティーリャ王国とフェルナンド2世のレオン王国とに分かれた。カスティーリャは、東隣のアラゴン連合王国とは条約で国境を定めていたが、西隣のレオン、ポルトガルとは国境線をめぐって戦闘が繰り返された。ムワッヒド朝との戦いも進展せず、一進一退を繰り返していた。 このような状況で、教皇インノケンティウス3世は、キリスト教諸国間の争いをやめ、カスティーリャ王アルフォンソ8世の指揮下で一致団結して対イスラム戦争に邁進することを命じた。これに従い、カスティーリャにはレオン、ポルトガル、アラゴン、ナバラ各国の兵、さらにテンプル騎士団などの騎士修道会やフランスの司教に率いられた騎士らが集結した。ムワッヒド朝のカリフ・ムハンマド・ナースィルも10万以上の兵を集め、キリスト教連合軍を撃ち破るべく北上する。両軍は1212年7月16日にラス・ナバス・デ・トロサで決戦し、キリスト教連合軍が勝利した(ラス・ナバス・デ・トロサの戦い)。この戦いによって、ムワッヒド朝はイベリア半島での支配力を失い、イスラム勢力圏は再び小国乱立状態となり、その多くはタイファ同士の主導権争いで敗れたり、勢いづいたキリスト教諸国の餌食になり、滅びた。その中でグラナダを首都とするナスル朝グラナダ王国が成立する。
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