ナバス・デ・トロサの戦い
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ナバス・デ・トロサの戦い | |
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レコンキスタ中 | |
![]() 『ナバス・デ・トロサの戦い』(マドリードにあるスペイン上院議事堂にて掲示) |
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戦争:レコンキスタ | |
年月日:1212年7月16日 | |
場所:スペイン、アンダルシア州、ラ・カロリナ、ナバス・デ・トロサ | |
結果:カトリック連合軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
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ムワッヒド朝 |
指導者・指揮官 | |
![]() ![]() ![]() ![]() ゴンサロ・ヌニェス・デ・ララ ロドリゴ・ヒメネス・デ・ラダなど |
ムハンマド・ナースィル |
戦力 | |
約10000〜20000 | 約20000〜30000 |
損害 | |
約10000 | 22000~30000 |
ラス・ナバス・デ・トロサの戦い(スペイン語:Batalla de Las Navas de Tolosa、アラビア語:معركة العقاب)は、1212年7月16日にイベリア半島、現在のスペイン・アンダルシア州ラ・カロリナ内のナバス・デ・トロサで、カスティーリャ王アルフォンソ8世をはじめとするキリスト教(カトリック)諸国連合軍とムワッヒド朝カリフ・ムハンマド・ナースィルが率いるイスラム教諸国連合軍の間で行なわれた戦いである。
戦前のイベリア半島情勢
1195年、アラルコスの戦いでカスティーリャ王アルフォンソ8世は、勢いに乗るムワッヒド朝のカリフ・ヤアクーブ・マンスールに敗れ、この戦いでムワッヒド朝はトルヒージョ(現エストレマドゥーラ州)、プラセンシア(同)などの重要な町を奪い、タラベーラ・デ・ラ・レイナ(現カスティーリャ・ラ・マンチャ州)、クエンカ(同)、トレド(同)、マドリード(現マドリード州)は落とせなかったが略奪と破壊を繰り返した。そのためタホ川流域以南は依然としてイスラム勢力の支配下に置かれることになった[1]。
しかも同年、その敗戦につけこんだ従弟のレオン王アルフォンソ9世から攻撃を受けた。これは退けたものの、元アルフォンソ8世の部下でマンスールに寝返ったペドロ・フェルナンデス・デ・カストロの仲介で、レオンはマンスールから資金と軍の提供を取り決め、ナバラ王サンチョ7世もレオンやムワッヒド朝と共謀してカスティーリャ領を攻撃した。このようにカスティーリャ王国は、東隣のアラゴン王国とはカソーラ条約で国境を定めていたが、北東のナバラと西隣のレオンとは国境紛争が繰り返されている状況であった[2]。
だが1196年にアルフォンソ9世とカストロがローマ教皇ケレスティヌス3世の怒りを買い破門、1197年にアルフォンソ8世の娘ベレンゲラとの結婚で和睦して包囲網が崩れると、同年にアルフォンソ8世はマンスールと10年の休戦を結び危機を脱した。休戦はマンスールの息子ムハンマド・ナースィルとも結ばれ、1210年まで延長された。この隙にアルフォンソ8世はナバラへ逆襲、1198年にアラゴン王ペドロ2世と結託しナバラへ侵攻、1200年までにアラバ・ギプスコア・ビスカヤを奪いバスク地方を併合、ナバラに対して優位に立った。こうしてカスティーリャは劣勢から立ち直った[注 1][3]。
一方、トレド大司教ロドリゴ・ヒメネス・デ・ラダはキリスト教国間の戦争を憂い、打倒イスラム教へ団結を呼びかけて説得に当たり成果は無かったが諦めず、代替わりした教皇インノケンティウス3世の意向を受けてムワッヒド朝に対する十字軍結成へ奔走した。それが報われ1209年にサンチョ7世とペドロ2世、アルフォンソ8世とアルフォンソ9世がそれぞれ和睦、イベリア半島のキリスト教国の和睦を確認した教皇はコインブラ・サモラ・タラソナのイベリア半島各司教に十字軍の支援を呼びかけ、ムワッヒド朝への決戦に向けて準備を進めていった[4]。
カトリック連合軍の集結と脱落者の続出
1199年にカリフ・ヤアクーブ・アル=マンスールが没すると、その子ムハンマド・アル=ナースィル(ムワッヒド朝カリフ)が継承した。1211年、アル=ナースィルはジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島へ上陸し、セビリアに入り、同年9月にはカラトラバ騎士団の要害サルバティエラ城を攻略したのち冬営のためセビリアへ帰還したとされる。[1][2]。
キリスト教側ではカスティーリャ王アルフォンソ8世がローマに使者を送り、教皇インノケンティウス3世の後援と十字軍の免償を得た。この呼びかけに応じてフランスの司教や騎士、さらにテンプル騎士団など軍事修道会の一部がトレドに集結し、アラゴン王ペドロ2世、ナバラ王サンチョ7世らも合流した。[3][4]
1212年初夏、連合軍は南進してカラトラバを再占領した(同時代書簡では6月30日〈聖パウロ記念日〉に総攻撃)。この際、サルバティエラの降伏責任を問われた守将イブン・カーディス(Ibn Qādis)がアル=ナースィルにより処刑されたと伝える記録がある。 [5]
その後、連合軍はハエン方面へ進み、ナバス・デ・トロサ平原で両軍が対峙した。進軍過程で、フランス系の十字軍の一部は「地形の厳しさと暑さ、補給負担」などを理由に離脱して本国へ帰還したとアルフォンソ8世の書簡自体が認めており、スペイン側の主力が戦列を維持したことを同時代のロドリゴ・ヒメネス・デ・ラダも記している。[6]
軍勢の規模については同時代の書簡・年代記が大きく誇張しており(たとえばアルフォンソ8世書簡は敵騎兵18万5千・戦死10万などと主張)、近年の研究ではより小さな数が妥当とされる。ガルシア=フィッツやアルビラ=カブレルらの整理を踏まえた概説では、キリスト教側約1万2千~1万4千、ムワッヒド側約2万2千~3万という推計がよく引用される。 [7]
なお、ポルトガル王アフォンソ2世は親征していないが、その配下の戦力・志願兵は連合軍側に加わったと一般に説明される。 [8]
ナバス・デ・トロサの戦闘経過
アンダルシア地方のハエンの住民の間の小競り合いに半ば介入する形で、1212年7月16日にハエン近郊のナバス・デ・トロサで両軍は戦闘を開始した。カトリック連合軍の配置は、中央前衛をディエゴ・ロペス2世・デ・アロが、ゴンサロ・ヌニェス・デ・ララが騎士修道会を率いて主力部隊を指揮、アルフォンソ8世がロドリゴを伴い後衛を指揮した。サンチョ7世、アビラ、セゴビア、メディナ・デル・カンポの軍勢は左翼、右翼にペドロ2世の軍勢が陣取っていた。ムワッヒド軍は前線のアラブ人・ベルベル人部隊がアンダルスの主力部隊を掩護、後方の丘でナースィルのいる天幕を黒人親衛隊が周りを固めた[5]。はじめは小競り合いのような戦いが繰り返された。カトリック連合軍は約12000〜14000ムワッヒド軍は約20000〜30000兵力であった。

ムワッヒド軍は正面からの衝突をなるべく避けて、カトリック連合軍が疲れてくるのを待つ戦術をとった。イスラム軍はカトリック軍の2倍をはるかに凌駕する兵力であり、後退するように見せかけて、主力の厚みを生かして一気に反攻するつもりであった。つまり、カトリック連合軍を挑発しておいて混乱しているところを、アンダルスと本国のベルベル人で構成された圧倒的な戦力をもってイベリア半島から一気に叩き出すつもりであった。
イスラム教徒軍が後退を始めた時、それを見ていたカトリック連合軍の陣中では、アルフォンソ8世が臣下である騎士たちや王子の正面にいた。アルフォンソ8世はカトリック王たち共通の、そして自分自身に課せられた使命を果たすチャンスと見てとった。アルフォンソ8世はナースィルの本陣の反対側の脇腹に突撃をかけた[注 2]。この攻撃はカトリック連合軍の士気を奮い立たせた。一方、ムワッヒド軍は大混乱に陥った。アラゴン軍やナバラ軍の小競り合いのような戦いも形勢が一気に傾いた。
この時、伝説のように語られるサンチョ7世の突撃が行なわれた。彼は揮下の精鋭を率いてナースィルの本陣めがけて突攻し、本陣のテントを鎖のように守る屈強な奴隷による親衛隊を打ち破って、テントまで斬り込んだ。

ナバラ王国の盾形紋章はこの戦いを契機に、赤地に金の鎖が描かれて中央にエメラルドが配される図柄となった[6]。この紋章は今もスペイン王国の国章の右下部分に見ることができる。
ナバス・デ・トロサの戦いのもたらした影響
ナバス・デ・トロサの戦い(1212年)は、カスティーリャ・アラゴン・ナバラ諸王国の連合軍がムワッヒド(アルモハード)朝軍を破った会戦であり、イベリア半島の勢力均衡に重要な転機をもたらしたと広く評価される。ただし、これによりイスラーム勢力が直ちに「壊滅」したわけではない。ムハンマド・ナースィル(在位1199–1213)の死後もムワッヒド朝の体制は一定期間維持され、その後1224年にユースフ2世が嗣子なく没すると継承問題が深刻化し、イフリーキヤでは1229年にハフス朝が独立、マグリブ西部ではマリーン朝が勢力を拡大して1269年にマラケシュを掌握した。これらの政治的分裂と地域離反が王朝衰退を決定づけた。[9][10][11]
戦術・戦役上の余波として、キリスト教側は会戦直後にバエサとウベダを攻略したが(アルフォンソ8世のローマ教皇宛書簡に拠る)、連合軍はその後ただちにアンダルシア奥深くまで進出したわけではない。補給事情や季節要因、諸王国間の利害の違いなどから作戦は断続的となり、本格的な領土拡張はフェルナンド3世期(1230年代以降)に加速する。1236年にコルドバ、1246年にハエン、1248年にセビリアがカスティーリャに帰属し、ムルシアは1243年のアルカラス条約で保護領化し[12][13]
一方、アラゴンはハイメ1世(ジャウマ1世)の下で1229–1232年にバレアレス諸島、1238年にバレンシアを獲得し、西地中海での影響力を拡大した。これらの動きはナバスの勝利が生んだ軍事・心理的優位を背景としつつも、各王国固有の政治・外交・海上力の展開に負うところが大きい。 [14][15]
総じて1212年は「長期的後退の引き金」ではあったが、「その場でアル=アンダルスが瓦解」ではない。現代の概説も「決定的勝利/転機」としつつ、因果を単線化しない語りを採るのが比較的客観的と思われる。[16]
注釈
- ^ マンスールは初め休戦を拒否、マドリードなどトレド周辺都市を荒らし回っていたが、北アフリカ・チュニジアで反乱が起こり足元に火が付いたため休戦を余儀無くされた。またこの時期、アラルコスの戦いで所領や団員の多くを失ったカラトラバ騎士団・サンティアゴ騎士団など各騎士団は、教皇から新たに所領と城を補充してもらい戦力を増強した。ローマックス、P166 - P168、芝、P133。
- ^ 脇腹へ抜ける山の間道(Despeñaperros Pass;直訳はDespeña-「絶壁から突き落とす」+-perros「犬たちorひどい、劣悪な」→「絶壁にある犬走り、間道」又は「絶壁にある劣悪な間道」か?)をこっそり通って奇襲をかけた、あるいはアンダルシア地方の「王の橋」を通ってシエラ・モレーナ山脈を通り抜けて攻撃をかけたという。鈴木、P178。
脚注
参考HP及び文献
- https://ims.leeds.ac.uk/wp-content/uploads/sites/29/2019/02/Las-Navas-de-Tolosa.pdf?utm_source=chatgpt.com https://deremilitari.org/2014/11/three-sources-on-the-battle-of-las-novas-de-tolosa-in-1212/ https://cdn1.despertaferro-ediciones.com/wp-content/uploads/2024/02/Las-Navas-de-Tolosa-Francisco-Garcia-Fitz-Desperta-Ferro-Ediciones.pdf?utm_source=chatgpt.com https://www.jstor.org/stable/j.ctt3fhw74?utm_source=chatgpt.com https://www.routledge.com/The-Almohad-Revolution-Politics-and-Religion-in-the-Islamic-West-during-the-Twelfth-Thirteenth-Centuries/Fierro/p/book/9781138116931?srsltid=AfmBOop3QA3AiQvV_6iZScm3MkPmhPSKSSlDqKAJAnHkdhXd9F-7AJRP&utm_source=chatgpt.com https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/09596410.2011.560437?utm_source=chatgpt.com
関連作品
ゲーム
- La Croix et L'epee (History&Colectors社 - Vae Victis誌#62,2005年,クロノノーツ ゲーム)
関連項目
外部リンク
ラス・ナバス・デ・トロサの戦い
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「アルフォンソ8世 (カスティーリャ王)」の記事における「ラス・ナバス・デ・トロサの戦い」の解説
1198年、名君と謳われたマンスールが病死し、暗愚のムハンマド・ナースィルが後を継ぐと、アルフォンソ8世は1210年から休戦を破り再戦を開始した。1211年にカスティーリャ軍がアンダルシアを襲撃すると、ムワッヒド朝は報復に出てカラトラバ騎士団のサルバティエラ城(カルサーダ・デ・カラトラーバ近郊)を陥落させた。アルフォンソ8世は救援出来ず傍観、長男フェルナンドの死など痛手を負うも屈せず、決戦に向けて準備を進めていった。 翌1212年、トレドにペドロ2世・サンチョ7世らアラゴン・ナバラ軍、サンティアゴ騎士団とカラトラバ騎士団、インノケンティウス3世とトレド大司教ロドリゴ・ヒメネス・デ・ラダ(英語版)の勧誘で来た十字軍志願者らが集結した。アルフォンソ9世は参戦と引き換えに領土を要求してアルフォンソ8世に断られ、ポルトガル王アフォンソ2世との対立もあり両者は来なかったが、配下の騎士達は参加した。 アルフォンソ8世は混成軍を率いて6月に出発、セビリアから北上したナースィルのイスラム軍と7月16日に激突した(ラス・ナバス・デ・トロサの戦い)。イスラム軍は大軍だったが士気は低く、反対にキリスト教連合軍は士気が高いことが勝因となり、アルフォンソ8世はロドリゴやペドロ2世・サンチョ7世と協力してナースィルに大勝、戦後バエサとウベダを獲得、周囲の都市(ナバス・デ・トロサ、ビルチェス、バーニョス、フェラール)も奪い取りハエンを制圧、アンダルシアに迫った。連合軍に疫病が流行して間もなく引き返すしかなかったが、キリスト教勢力はグアディアナ川を越えてグアダルキビール川流域へ戦線を南へ拡大、アルフォンソ8世はこの勝利でイスラム勢力に対するレコンキスタの優位を確立したのである。 内政においてもコルテスを発足させ、1208年にパレンシアでスペイン初となる大学を建立している(パレンシア大学(英語版))。
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