アルフォンソ8世 (カスティーリャ王)
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アルフォンソ8世(Alfonso VIII, 1155年11月11日 - 1214年10月5日)は、カスティーリャ王(在位:1158年 - 1214年)。高貴王(el de las Navas)と呼ばれる。父はサンチョ3世、母はナバラ王ガルシア6世の娘ブランカ。ヒスパニア皇帝を称したカスティーリャ王兼レオン王アルフォンソ7世の孫。
- ^ しかし、アラゴンとナバラが共謀してマルダニーシュの領地を狙い始め、武力行使に出るとマルダニーシュはそちらに気を取られ、1165年にムワッヒド朝のアミール・アブー=ヤアクーブ・ユースフ1世に敗れ勢力が衰退し始めた。アラゴンとはアルフォンソ8世の仲介で和睦したが、ムワッヒド朝の侵攻に晒され続ける中、1172年にマルダニーシュは死去、息子達は遺言に従い領地をムワッヒド朝へ明け渡し、キリスト教勢力は有力な味方を失った。ローマックス、P154 - P155。
- ^ 一応合意した両国だが、この後も征服地の分け前を巡り紛争が絶えず、1244年に新たにアルミスラ条約が結ばれた。ローマックス、P203 - P204、関、P223 - P224。
- ^ マンスールは初め休戦を拒否、マドリードなどトレド周辺都市を荒らし回っていたが、北アフリカ・チュニジアで反乱が起こり足元に火が付いたため休戦を余儀無くされた。またこの時期、アラルコスの戦いで所領や団員の多くを失った各騎士団は、教皇から新たに所領と城を補充してもらい戦力を増強した。ローマックス、P166 - P168、芝、P133。
- ^ ただし、勝利といってもキリスト教勢力は追い打ちをかけられず、ムワッヒド朝はすぐに南の防衛線を建て直した上、辺境でイスラム教勢力が戦い続けていた状態だったため、両者共にこの戦いの重要性を理解出来ていなかった。また、バエサとウベダは後にイスラム教側に奪回されている。ローマックス、P177、P179、P188、芝、P141。
- ^ a b c d 関、P153。
- ^ ローマックス、P153 - P154、芝、P128 - P129、西川、P134 - P136。
- ^ ローマックス、P150 - P152、芝、P129、関、P152。
- ^ ローマックス、P136、P156 - P158、芝、P129 - P130、関、P117、P152。
- ^ ローマックス、P159 - P161。
- ^ ローマックス、P161 - P163、芝、P130、西川、P136 - P137。
- ^ ローマックス、P163 - P165、芝、P131 - P132、西川、P137 - P138。
- ^ ローマックス、P165 - P167、芝、P131 - P133、関、P153 - P154、西川、P138 - P140。
- ^ 芝、P133 - P134、西川、P140。
- ^ ローマックス、P168 - P169、芝、P137 - P138。
- ^ ローマックス、P169 - P175、芝、P138 - P141、関、P154、西川、P140 - P142。
- ^ 関、P196。
- ^ ローマックス、P177 - P178。
- ^ ローマックス、P178 - P180。
- ^ ローマックス、P180 - P183、芝、P142 - P146、西川、P143 - P144。
- ^ 関、P117。
- 1 アルフォンソ8世 (カスティーリャ王)とは
- 2 アルフォンソ8世 (カスティーリャ王)の概要
- 3 麗人と呼ばれた愛妾
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