内紛と外国の介入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 15:20 UTC 版)
「アルフォンソ8世 (カスティーリャ王)」の記事における「内紛と外国の介入」の解説
1157年に死んだ祖父の後を継いだ父が翌1158年に急死、母も既に1156年に亡くしている中、幼少で即位したアルフォンソ8世の摂政に任命された有力貴族のララ家とカストロ家が争い、その隙に親戚の外国もカスティーリャへ攻め込んで来た。アルフォンソ8世の母方の伯父で父方の叔母サンチャの夫でもあるナバラ王サンチョ6世と、父方の叔父のレオン王フェルナンド2世がカスティーリャへ侵攻、レオン軍がトレド・ブルゴスを攻撃、ナバラがラ・リオハを占領、東西から挟み撃ちにされたアルフォンソ8世はララ家に連れられてブルゴスから南のアビラへ逃れた。 内紛はララ家がカストロ家を追放、1169年に成人式を迎えたアルフォンソ8世が翌1170年に親政を宣言、同年に父方の叔母サンチャ(同名のサンチャの異母妹)を妻としているアラゴン王アルフォンソ2世と同盟関係を結び、イングランドからレオノールを王妃に迎えることでその窮地を脱した。ナバラへの報復として1173年にナバラへ侵攻、イングランドの仲裁で有利な講和を結びカスティーリャを建て直した。 この間、南のアンダルシアからムワッヒド朝が北上して来たが、ムスリムでありながら反ムワッヒド朝のバレンシア王兼ムルシア王イブン・マルダニーシュ(スペイン語版)(通称ローボ王)がその攻撃を防いでくれた。タイファ(イスラム教国)の1つである両国の君主マルダニーシュは1159年にアルフォンソ8世に臣従、1172年に亡くなるまでムワッヒド朝と戦った。また、アルフォンソ8世は辺境地域に置いた騎士団に領地や特権を与えて対イスラム教徒の防衛線とし、サンティアゴ騎士団をトレド近郊に、カラトラバ騎士団をトレドから南のグアディアナ川流域の都市カラトラーバ・ラ・ビエハ(英語版)・アラルコスに配置してトレドへの侵入路を監視させた。騎士団は後に防衛任務だけでなくイスラム教からの領土征服にも取り組み、手に入れた土地の植民や整備などでキリスト教の領土拡大に功績を挙げることになるが、当面はムワッヒド朝からの防衛に費やした。
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