内紛と覇者文公
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 07:26 UTC 版)
11代昭侯の時に、昭侯の叔父の成師が曲沃を与えられて分家し、死後桓叔と呼ばれた。桓叔は善政を行ったので曲沃は栄え、首都よりも大きくなった。その後、翼の本家と曲沃との間で争いが続き、桓叔の孫の武公の時代に翼の晋侯緡を滅ぼし、主家に取って代わった。 武公の子の献公の時代に、献公の寵姫である驪姫が自らの息子を跡継ぎにしようと画策(驪姫(りき)の乱(中国語版))したため、太子である申生(中国語版)(しんせい)は自殺を強いられ、公子の重耳と夷吾は国外に逃亡した。驪姫の息子以外の公子はほとんど殺され、また驪姫も息子と共に反対派に殺された。その後、諸国を放浪していた重耳が戻り晋公(文公)となると、周室の内乱を治めたり城濮の戦い(紀元前632年)で楚を破るなど、権勢を強めて中原の覇者となり、最盛期を迎えた晋が天下を経営した。 景公の時代には邲の戦い(紀元前597年)で楚に大敗を喫し、天下の覇権が楚へと移った。敗戦の責任問題に端を発する内紛で公族の数が激減し、他国と比べて公族の力が弱体化していた中で側近政治が試みられ、狄を滅ぼすなど、徐々に大夫の影響力が増大した。厲公の時に鄢陵の戦い(紀元前575年)の勝利で楚から天下の覇権を取り戻したが、厲公の強引さが反発を生んで殺害され(紀元前573年)、悼公が周から迎えられた時には臣下に対して決定的な力を持たなくなった。悼公自身は名君だったので初めは目立たなかったが、晋の公室は、大夫たちの勢力が均衡した状況で辛うじて身分を保障される存在になっていった。頃公の時に晋の公族系の祁氏や羊舌氏、および欒氏、郤氏、先氏の各氏を滅ぼすことによって、六卿(後述)が決定的な力を持つようになった。
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