内紛の収拾
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大永6年(1526年)7月13日、相良家中の混乱を突いて日向国真幸院の北原氏の軍勢が突如として現れて、人吉城を取り囲んだ。北原氏は、長毎に除かれた相良頼泰の血縁で、相良氏とは姻戚関係にあった。 北原勢は南面して、大岩瀬、梅花(かうげ)の森や中川原、対岸の地蔵山宗厳寺にも陣を布いた。上村勢が援軍し、船で城に兵糧を入れようとしたが、北原勢がこれを奪おうとし、城兵も繰り出して中川原合戦が起こった。相良側が勝って無事に兵糧は入れられたが、城兵は数が少なく、長唯は皆越の地頭皆越安芸守貞当を呼び寄せたいと思ったが、包囲されていて連絡する手段がなかった。そこに祐玉寺の僧・樹薫が志願し、この僧は密書を油紙に包んで川を泳ぎ、矢黒の瀬(下流地点)で上陸して間道を通って皆越に無事書状を届けた。 長唯は、城内より敵に呼び掛け、「明朝、後詰として伊東家より援兵が来るのでその上で一戦交えん」と敢えて告げさせた。皆越貞当は夜に出発すると、長唯に授けられた奇策に従い、高土原(こうどのはる)に篝火を置き、沿道にも点々と篝火を残して行って、100名余りの手勢も各々松明を手にして、実際よりも多数の軍勢が援軍に来たように見せかけた。そして人吉に至ると、皆越勢に「我らは日州伊東家の加勢の者だ。この後も軍兵が参陣するぞ」と呼ばわせ、これを聞いた北原氏の包囲勢は狼狽して潰走した。宗厳寺で僧を殺すなど狼藉を働いたり、城下に残った北原勢は尽く討ち取られ首を斬られた。(大岩瀬合戦) なお、異説であるが『日向国史』によると、伊東祐充は姉の夫である長祗が放逐されたことを知ると、大永6年7月、荒武三省、弓削木工允など家臣を球磨に派遣した。これらは8月7日、犬童長広が逃げ込んだ宮之原城(八代郡氷川町宮原)の攻略と鎮定に貢献したといい、翌年12月26日、(長祗は)都於郡城まで礼に来て、祐充は鎮定の協力に感謝されたのだという。 大永7年(1527年)4月3日、頼興の弟上村長種を古麓城主とし、長定に組して謀反を起こした犬童氏の鎮定を始めた。他方で、同月24日、相良刑部大輔が豊福城を放棄して撤退。宇土城主名和武顕の家臣皆吉伊豆守武真がこれを領し、対外勢力との戦いでは一歩後退した。 享禄2年(1529年)3月8日、上村長種は佐敷の犬童一族を攻撃。7月6日には同城を落とし、11月19日には犬童重良の湯浦城(小野嶽城)を落としたので、重良父子は津奈木城へ逃れた。翌年正月5日に津奈木城を攻めて26日に落としたので、相良長定や重良父子はさらに逃亡した。27日、長種は、長祗の首を取った当人である犬童忠匡(匡政)とその息子左近を捕えて、八代に連行して処刑した。3月には、犬童刑部左衛門長広を捕え、人吉に護送して中川原で斬首した。木上城(岩城)主犬童重安(重良の弟、頼安の父)には賜死が命じられ、重良父子も後に捕まって処刑された。 同じ享禄3年(1530年)、嫡男のいなかった長唯は、頼興との約束通り、上村頼重を世子として相良長為と改名させた。 長定は長子の都々松丸を連れて船で筑後国に亡命していたが、長唯は、度々使いを送って許しを与えると甘言して、長定に帰参を勧めた。享禄4年(1531年)、長定はついにこれに騙されて球磨に帰ってきた。長唯は、長祗の首が葬られた法寿寺に長定を泊めて、11月11日、西法路(にし のりみち)に命じてその門外で討たせた。さらに筑後に残った長子の都々松丸も刺客を送って暗殺し、長定の後を追って来た夫人と第二子の都々満丸も、鐘音寺(今の大信寺)で待ち伏せして殺害し、一家皆殺しとした。
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