賜死
賜死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 10:10 UTC 版)
邙山の戦勝の後のこと、後主高緯から「敵陣深く侵入したが、敗北を恐れなかったか?」と聞かれると「家の一大事だったので恐れませんでした」と答えたことがあった(原文:家事親切,不覚遂然)。後主は皇帝を差し置いて国家を「家事」として語ったことや、長恭の威名と武勲の大きさから忌み嫌った。長恭自身もその気配に気付き、定陽にいた頃にわざと戦利品を貪って評判を落とそうとした。属将の尉相願に「それは逆に災いを招きます」と指摘されると、涙を流して安全策を問うた。尉相願が「病と称して自宅に閉じこもるほかありません」と答えると、長恭は納得はするも引退できずにいた。その後、実際に腫瘍が出来たために自宅に戻り、南の江淮に陳が侵攻した時には再び起用されることを恐れて治療を拒否していた。 しかしそれも一時のことで、斛律光が粛清された翌月(572年8月)には大司馬に、翌573年4月には太保に任じられた。そして同5月、後主より徐之範が遣わされ毒薬を賜り自殺した。このとき王妃である鄭氏に「私は忠義を以って事にあたったが、一体何の罪で天は鴆毒を賜わすのか」と嘆くと、鄭氏は「今からでも、陛下に申し開きはできないのでしょうか」と泣きながら訴えたが、高長恭は「今更、どんな訴えが聞き容れられよう」と答え、債券の類を全て焼き払わせ、従容として死に臨んだ。後に仮黄鉞・使持節・并青瀛肆定五州諸軍事・太師・太尉公および并州刺史を追贈され、諡は「武」といった。享年33。武平5年(574年)6月16日に鄴城の西北十五里に埋葬された。
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