賜死とは? わかりやすく解説

賜死

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/15 16:08 UTC 版)

賜死(しし)とは、死刑の一種。君主臣下、特に貴人に対して自殺を命じることを指すが、単純に君主の命令(王命)による死刑を賜死と呼ぶこともある。


  1. ^ 『旧唐書』酷吏伝
  2. ^ 『養老律令』獄令
  3. ^ 。平松義郎『江戸の罪と罰』(平凡社 2010)
  4. ^ 『御定書百箇条』
  5. ^ ただし有馬晴信のように、自ら願い出て斬罪になった例は存在し、この場合は切腹とほぼ同義とみてよい。


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賜死

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 10:10 UTC 版)

高長恭」の記事における「賜死」の解説

邙山の戦勝後のこと後主高緯から「敵陣深く侵入したが、敗北恐れなかったか?」と聞かれると「家の一大事だったので恐れませんでした」と答えたことがあった(原文家事親切,不覚遂然)。後主皇帝差し置いて国家を「家事」として語ったことや、長恭の威名武勲大きさから忌み嫌った。長恭自身もその気配気付き定陽にいた頃にわざと戦利品貪って評判落とそうとした。属将の尉相願に「それは逆に災い招きます」と指摘されると、涙を流して安全策を問うた。尉相願が「病と称して自宅閉じこもるほかありません」と答えると、長恭は納得はするも引退できずにいた。その後実際に腫瘍出来たために自宅戻り、南の江淮に陳が侵攻した時には再び起用されることを恐れて治療拒否していた。 しかしそれも一時のことで、斛律光粛清され翌月572年8月)には大司馬に、翌573年4月には太保任じられた。そして同5月後主より徐之範遣わされ毒薬賜り自殺した。このとき王妃である鄭氏に「私は忠義以って事にあたったが、一体何の罪で天は鴆毒賜わすのか」と嘆くと、鄭氏は「今からでも、陛下申し開きできないのでしょうか」と泣きながら訴えたが、高長恭は「今更、どんな訴え聞き容れられよう」と答え債券の類を全て焼き払わせ、従容として死に臨んだ。後に仮黄鉞・使持節・并青瀛肆定五州諸軍事・太師太尉公および并州刺史追贈され、諡は「武」といった。享年33武平5年574年6月16日に鄴城の西北十五里に埋葬された。

※この「賜死」の解説は、「高長恭」の解説の一部です。
「賜死」を含む「高長恭」の記事については、「高長恭」の概要を参照ください。

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