端宗復位事件とは? わかりやすく解説

端宗復位事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/18 06:50 UTC 版)

死六臣」の記事における「端宗復位事件」の解説

世宗長男にして世祖の兄である文宗在位2年早世し、その子である端宗1452年王位継いだ。まだ幼かった端宗補佐した首陽大君後の世祖で、端宗叔父)は1453年端宗に従う重臣殺害して権力を掌握した(癸酉靖難)。その後首陽大君錦城大君配流し、譲寧大君世宗実兄)や権擥韓明澮らの後押しにより1455年6月端宗から王位禅譲させ(これにより端宗上王となった)、自らが世祖名乗り王位就いたこの頃、明で起きた奪門の変影響で、端宗の上王が廃位され魯山君封じられたのちに庶人落とされた。これにより、錦城大君世宗によって集賢殿抜擢され学者政治家であり、文宗から幼い端宗補佐するよう遺命受けていた成三問らは、端宗復位図って同志募った。しかし世祖殺害して復位実現しようとする計画成三問と共に行動するはずであった金礩の裏切りと密告によって発覚し関与した者たちは世祖捕らえられた。死六臣含め捕らえられた者は鞭打ち拷問の後、凌遅刑(牛を用いた八つ裂きの刑)などで処刑された。このとき処刑された者は成三問の父である成勝なども含め70余名上る錦城大君端宗もこの事件により賜死となり、賜薬処せられた。

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端宗復位事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/03 09:17 UTC 版)

癸酉靖難」の記事における「端宗復位事件」の解説

事件から1年半後の1456年6月に「端宗復位事件」が発覚し成三問朴彭年ら、のちに「死六臣」と呼ばれる文臣たちが処刑される翌年6月には、上王端宗魯山君降格の上その4か月後に配流先で賜薬下され17歳という若さ賜死された(死後端宗正式に王位回復されるのは第19代国王粛宗の時代)。この時、端宗復位のために謀反起こして既に配流されていた第4代王・世宗の六男の錦城大君も、ほぼ同時に配流先で賜死されている。

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