端宗復位事件
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世宗の長男にして世祖の兄である文宗が在位2年で早世し、その子である端宗が1452年に王位を継いだ。まだ幼かった端宗を補佐した首陽大君(後の世祖で、端宗の叔父)は1453年に端宗に従う重臣を殺害して権力を掌握した(癸酉靖難)。その後、首陽大君は錦城大君を配流し、譲寧大君(世宗の実兄)や権擥、韓明澮らの後押しにより1455年閏6月に端宗から王位を禅譲させ(これにより端宗は上王となった)、自らが世祖を名乗り王位に就いた。 この頃、明で起きた奪門の変の影響で、端宗の上王が廃位され、魯山君に封じられたのちに庶人へ落とされた。これにより、錦城大君や世宗によって集賢殿に抜擢された学者・政治家であり、文宗から幼い端宗を補佐するよう遺命を受けていた成三問らは、端宗の復位を図って同志を募った。しかし世祖を殺害して復位を実現しようとする計画は成三問らと共に行動するはずであった金礩の裏切りと密告によって発覚し、関与した者たちは世祖に捕らえられた。死六臣を含め、捕らえられた者は鞭打ちの拷問の後、凌遅刑(牛を用いた八つ裂きの刑)などで処刑された。このとき処刑された者は成三問の父である成勝なども含め70余名に上る。 錦城大君、端宗もこの事件により賜死となり、賜薬に処せられた。
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端宗復位事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/03 09:17 UTC 版)
事件から1年半後の1456年6月に「端宗復位事件」が発覚し、成三問・朴彭年ら、のちに「死六臣」と呼ばれる文臣たちが処刑される。翌年の6月には、上王端宗も魯山君に降格の上、その4か月後に配流先で賜薬を下され17歳という若さで賜死された(死後、端宗が正式に王位を回復されるのは第19代国王粛宗の時代)。この時、端宗復位のために謀反を起こして既に配流されていた第4代王・世宗の六男の錦城大君も、ほぼ同時に配流先で賜死されている。
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