はい‐りゅう〔‐リウ〕【配流】
はい‐る【配流】
流罪
配流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 07:07 UTC 版)
大溝藩は緊急に陣屋敷地内に牢屋敷を増築し、配流人を迎えた。光寧は重蔵を丁重に扱ったと言われている。時の著名人でもあった近藤は、小藩といえど京に近く学問や見識を得ることへの関心が高かった大溝藩において、重蔵は格好の珍客とも言えた。流人ではあったが近藤は書物を与えられ、藩士を相手に意見交換を行ったり、藩士と漢詩を唱和したりしていたことが伝わる。近藤は大溝で本草学書『江州本草』全30巻を著した。大溝を中心とした近江国の植物の、いわゆる植物図鑑であったとされるが、現存しない。近藤は流罪中の罪人であり、当初の監禁状態が緩んでいたとしても陣屋周辺の散策採集であり、近江国内を自由に出歩くようなことはできなかったため、当然ながら大溝藩内部の協力があったと推測される。 配流のまま、文政12年6月16日(1829年7月16日)に同地にて死去。享年59。大溝藩内の円光禅寺の塔頭瑞雪院に葬られた。死後の万延元年(1860年)に重蔵の連座処分は赦されたが、長男の富蔵は半世紀以上赦免されず、富蔵による亡父の墓参は、富蔵の流刑から53年を経た明治13年(1880年)にようやく実現した。 明治44年(1911年)、正五位を追贈された。
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配流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 05:47 UTC 版)
四国の伊予国に流され、現在の今治市の富田地区に3年間居住し、その後少しずつ勢力をつけたために、治暦3年(1067年)に九州の筑前国宗像郡の筑前大島に再配流された。その後、宗像の大名である宗像氏によって、日朝・日宋貿易の際に重要な役割を果たしたと考えられる。また、大島の景勝の地に自らの守り本尊として奉持した薬師瑠璃光如来を安置するために安昌院を建てた。そして、嘉承3年(1108年)2月4日に77歳で亡くなった。なお配流先については、伊予から筑前へと移されたという説と当初より大宰府に流されたという説とがある。 工藤雅樹は、伊予から筑前に移された理由を「頼義が背後におり、奥六郡の支配権を清原氏から取り戻そうとしていたため、朝廷がそれを防ごうとした」と推察している。
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配流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 00:32 UTC 版)
関ヶ原の戦後処理において、徳川家康より昌幸・信繁父子には上田領没収と死罪が下される。昌幸は討死覚悟で籠城する決意を固めるが、東軍に属した長男の信幸(後の信之)とその舅である本多忠勝の助命嘆願で助命され、高野山への蟄居が決められた(『上田軍記』)。信濃上田の真田領に関しては信幸に与えられ、信幸は沼田27,000石、上田38,000石、加増30,000石の合わせて95,000石を領する大名となり、真田家の存続に尽くした。 昌幸は慶長5年(1600年)12月13日に上田城を発して高野山に向かった。昌幸の正室は上田に残留し、次男の信繁とその妻子、さらに池田長門・原出羽・高梨内記・小山田治左衛門・田口久左衛門・窪田作之丞・関口角左衛門・関口忠右衛門・河野清右衛門・青木半左衛門・飯嶋市之丞・石井舎人・前島作左衛門・三井仁左衛門・大瀬儀八・青柳清庵ら16人が従った(『滋野世記』)。昌幸の去った上田城は徳川方に接収され、家康の命令を受けた諏訪頼水らによって破却された。なお信之と別れの対面をした際に、恐ろしげな目からはらはらと涙を流して「さてもさても口惜しきかな。内府(家康)をこそ、このようにしてやろうと思ったのに」と無念の胸中を語ったと伝わっている(『真田御武功記』)。 高野山での昌幸の配所は1里ほど麓の細川という場所であった。しかし、間もなく配所は九度山(現・和歌山県九度山町)に代わる。信繁が妻を伴っていたため「女人禁制」の関係で代わったとも、冬の高野山の寒さに耐えかねて代わったとも言われている。なお、流人ではあるが昌幸・信繁の屋敷が別々に造営され(真田庵)、家臣の屋敷も近くに造られるなど、普通の流人よりはかなり厚遇されていたようである。昌幸の生活費に関しては国許の信之、関係の深かった蓮華定院、和歌山藩主の浅野幸長からの援助で賄った。しかし生活費に困窮し、国許の信之に援助金を催促するため10年余の間に20余通の書状を出している。このことからも、昌幸が上田を去った後も、信之との関係が疎遠にならず、親密な仲を維持していた事が伺える。
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