配流とは? わかりやすく解説

はい‐りゅう〔‐リウ〕【配流】

読み方:はいりゅう

⇒はいる(配流)


はい‐る【配流】

読み方:はいる

[名](スル)流罪処すること。島ながし。配謫(はいたく)。流刑(るけい)。「—の身」「離島へ—される」


配流

読み方:ハイル(hairu)

流罪処すること。


流罪

(配流 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/30 16:36 UTC 版)

流刑(るけい、りゅうけい)とは、刑罰の一つで、罪人を辺境やに送り、その地への居住を強制する追放刑の一種[1]。日本においては律令制五刑の一つ流罪(るざい)が知られ、流刑と同義語で用いられることもある。流刑地に処することは配流(はいる)という。




「流罪」の続きの解説一覧

配流

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 07:07 UTC 版)

近藤重蔵」の記事における「配流」の解説

大溝藩緊急に陣屋敷地内牢屋敷増築し、配流人を迎えた。光寧は重蔵丁重に扱ったと言われている。時の著名人でもあった近藤は、小藩といえど京に近く学問見識を得ることへの関心高かった大溝藩において、重蔵格好珍客とも言えた。流人ではあったが近藤書物与えられ藩士相手意見交換行ったり、藩士漢詩唱和したりしていたことが伝わる。近藤大溝本草学書『江州本草』全30巻を著した大溝中心とした近江国植物のいわゆる植物図鑑であったとされるが、現存しない。近藤流罪中の罪人であり、当初監禁状態が緩んでいたとしても陣屋周辺散策採集であり、近江国内を自由に出歩くようなことはできなかったため、当然ながら大溝藩内部協力があったと推測される。 配流のまま、文政12年6月16日1829年7月16日)に同地にて死去享年59大溝藩内の円光禅寺塔頭瑞雪院に葬られた。死後の万延元年1860年)に重蔵連座処分は赦されたが、長男富蔵半世紀以上赦免されず、富蔵による亡父墓参は、富蔵流刑から53年経た明治13年1880年)にようやく実現した明治44年1911年)、正五位追贈された。

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配流

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 05:47 UTC 版)

安倍宗任」の記事における「配流」の解説

四国伊予国流され現在の今治市富田地区3年間居住しその後少しずつ勢力をつけたために、治暦3年1067年)に九州筑前国宗像郡筑前大島に再配流された。その後宗像大名である宗像氏によって、日朝日宋貿易の際に重要な役割果たした考えられるまた、大島の景勝の地に自らの守り本尊として奉持した薬師瑠璃光如来安置するために安昌院を建てた。そして、嘉承3年1108年2月4日77歳亡くなった。なお配流先については、伊予から筑前へと移されたという説と当初より大宰府流されたという説とがある。 工藤雅樹は、伊予から筑前移され理由を「頼義が背後におり、奥六郡支配権清原氏から取り戻そうとしていたため、朝廷がそれを防ごうとした」と推察している。

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配流

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 00:32 UTC 版)

真田昌幸」の記事における「配流」の解説

関ヶ原の戦後処理において、徳川家康より昌幸・信繁父子には上田没収死罪下される。昌幸は討死覚悟籠城する決意固めるが、東軍属した長男の信幸(後の信之)とその舅である本多忠勝助命嘆願助命され、高野山への蟄居決められた(『上田軍記』)。信濃上田真田に関しては信幸に与えられ、信幸は沼田27,000石、上田38,000石、加増30,000石の合わせて95,000石を領する大名となり、真田家存続尽くした。 昌幸は慶長5年1600年12月13日上田城発して高野山向かった。昌幸の正室上田残留し次男信繁とその妻子、さらに池田長門・原出羽高梨内記小山田左衛門田口左衛門窪田作之丞・関口左衛門関口忠右衛門河野清右衛門青木左衛門飯嶋市之丞・石井舎人前島左衛門三井仁左衛門大瀬儀八・青柳清庵16人が従った(『滋野世記』)。昌幸の去った上田城徳川方接収され家康命令受けた諏訪頼水らによって破却された。なお信之と別れ対面をした際に、恐ろしげな目からはらはらと涙を流してさてもさても口惜しきかな。内府家康)をこそ、このようにしてやろうと思ったのに」と無念胸中語った伝わっている(『真田武功記』)。 高野山での昌幸の配所は1里ほど麓の細川という場所であった。しかし、間もなく配所九度山現・和山県九度山町)に代わる信繁が妻を伴っていたため「女人禁制」の関係で代わったとも、冬の高野山寒さに耐えかねて代わったとも言われている。なお、流人ではあるが昌幸・信繁屋敷別々に造営され真田庵)、家臣屋敷近く造られるなど、普通の流人よりはかなり厚遇されていたようである。昌幸の生活費に関して国許の信之、関係の深かった蓮華定院和歌山藩主の浅野幸長からの援助賄った。しかし生活費困窮し国許の信之に援助金催促するため10年余の間に20余通の書状出している。このことからも、昌幸が上田去った後も、信之との関係が疎遠にならず、親密な仲を維持していた事が伺える。

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