配流追放
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 02:41 UTC 版)
宝暦三年(1752年) 圓説四十一歳 異風惑世の讒をうけ山城法傳寺より追放される。遠流ではなく所払いである。払う方の幾分の後ろめたさと、しかも天皇家の勅願寺の再建という事例に些かの思いが遠慮がちにそうさせたのであろうと推察される。尚、法傳寺以下の末寺も寺領や什物を引き渡し、寺を明け渡して閉門した。光月庵も同じような状態に置かれたたと思われる。光月庵『寺史』によると然るに上人の錫を難波宗金寺に移し給ひてより信徒の離散するもの多く為に昔日の如くならずと潮が引くように庵も寂れていったと云う。 圓説和尚、四十一歳 宝暦三年(1752年)~宝暦四年(1753年) 圓説和尚、四十二歳 追放され大坂北野宗金寺に留むる圓説和尚と宗金寺の関係は先の『問答一件記』『不退上人一件記』に曰、「不退は、即答、宗金寺ハ法伝寺抱寺二而者無之、則三番村ず移し候寺二而、起立 河内屋伊兵衛・河内屋加左工門と申両人二而候、看坊住持者 天満屋敷山本長右工門縁者則拙僧弟子二而候」と答えているように、宗金寺は法伝寺の末寺ではなく、不退の弟子が住持していた関係から不退の提唱する念佛の勧化所となっていたことがうかがわれ、弟子や信者に請われて、いわゆる勧請開山的役割を不退がもったものと思われる。 異風惑世の讒をうけ、山城法傳寺より追放され、当時、行基上人の旧蹟でしかも荒廃にまかせていた大坂北野宗金寺跡に留錫し、これを復興したと云うのである。この寺は元、佛光山宗金輪寺と言い、往昔に行基大士が浪花の長良橋新建之時に休息之地で、自の手で造られた願王尊像十一面に大悲之尊容の為に本尊而謄仰がれた。聖武天皇之勅願所であった。時至って宝暦の度大破していたのを不退師が住まわれた山城國の鳥羽法皇山宝伝寺で“浄土一宗”を創用され木魚を策励し誦経念佛を世人不レ知りて三是原二聖奨し哨す。還りて詰為 異風により惑世したと而以奏ずるものあり。惣本山に退師不レ屈し、敏達にして公儀に訟而転進不屈、還請讒者と対決におよんだが公儀の役無慙攻、公儀の役理解不諾として山城國を追放さる。退師感ずるに歎濁世なれど終りに至らずと此宗金輪寺廃跡を大愁常とし行脚、行頭陀常し説説三ケ年で之を再建す。 圓説和尚、四十一歳 宝暦三年(1752年)~四十四歳 宝暦六年(1755年)由緒のある寺だったが荒廃(宝暦度大破)していたこの寺を三年の間に再建したことで後の住職から当寺院の開山上人と言わしめた。
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