配流先での生活とは? わかりやすく解説

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配流先での生活

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 12:57 UTC 版)

崇徳天皇」の記事における「配流先での生活」の解説

『保元物語』によると、崇徳院讃岐国での軟禁生活の中で仏教深く傾倒して極楽往生願い五部大乗経(『法華経』『華厳経』『涅槃経』『大集経』『大品般若経』)の写本作り専念して(血で書いたか墨で書いたかは諸本違いがある)、戦死者供養反省の証にと、完成した五つ写本を京の寺に収めてほしいと朝廷差し出したところ、後白河院は「呪詛込められているのではないか」と疑ってこれを拒否し写本送り返してきた。これに激しく怒った崇徳院は、舌を噛み切って写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道回向(えこう)す」と血で書き込んだ。そして崩御するまで爪や髪を伸ばし続けて夜叉のような姿になり、後に天狗になったとされている。また崩御後崇徳から閉めているのにも関わらず血が溢れてきたと言う一方今鏡』「すべらぎの中第二 八重の潮路」では、「憂き世あまりにや、御病ひも年に添へて重らせ給ひければ」と寂しい生活の中で悲しさ余り病気年々重くなっていったとは記されているものの、自らを配流した者への怒り恨みといった話はない。また配流先で崇徳院実際に詠んだ思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたこころぼそさを」(『風雅和歌集』)という歌を見ても、悲嘆感情うかがえても怨念抱いていた様子はない。承久の乱隠岐国配流された後鳥羽上皇が、「われこそは にゐじま守よ 隠岐の海の あらきなみかぜ 心してふけ」(『遠島百首』)と怒り満ちた歌を残しているのとは対照的である。 崇徳院は、配流先の讃岐鼓岡木ノ丸御所国府役人の綾高遠の娘との間に1男1女をもうけている。

※この「配流先での生活」の解説は、「崇徳天皇」の解説の一部です。
「配流先での生活」を含む「崇徳天皇」の記事については、「崇徳天皇」の概要を参照ください。

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