配流後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 05:19 UTC 版)
伊豆へ放逐された仁寛は名を蓮念と改め、真言の教えの伝道に努めた。武蔵国立川出身の陰陽師・見蓮(兼蓮とも書く)と出会ったのはこの頃である。この見蓮をはじめ、観蓮、寂乗、観照らの弟子に醍醐三宝院流の奥義を伝授した。 永久2年(1114年)3月23日、伊豆葛城山の南東麓の城山(じょうやま)の頂から身を投げ死亡した。彼の教えは見蓮らが発展させ、立川流を確立したとされている。 なお、立川流に関わる文献は、そのほとんどが後世の弾圧により失われており、詳細は明らかでない。仁寛もまた例外ではなく、上に述べた生涯についても、疑問点が指摘されている。この点に関しては、「立川流」の項を参照。
※この「配流後」の解説は、「仁寛」の解説の一部です。
「配流後」を含む「仁寛」の記事については、「仁寛」の概要を参照ください。
- 配流後のページへのリンク