たくあん‐そうほう〔‐ソウハウ〕【沢庵宗彭】
沢庵宗彭
沢庵 宗彭 (たくあん そうほう)
1573〜1645 (天正元年〜正保2年) |
【臨済宗の僧】 品川東海寺を創建。タクアン漬けにその名を残した禅僧。 |
江戸初期の臨済宗の僧。大徳寺に入り、1609年、住持となる。紫衣事件で幕府に抗弁書を提出したことを咎められ、出羽に配流された。後、許されて京都へ帰ったが、柳生宗矩の勧めにより三代将軍家光が相談役になり、品川に東海寺を興した。書画・俳諧・茶にも近しかった。 |
年(和暦) | ||
●1573年 (天正元年) | ■室町幕府滅亡 | 0才 |
●1575年 (天正3年) | ■長篠の戦い | 2才 |
●1580年 (天正8年) | ■イギリス商船平戸に来航 | 7才 |
●1582年 (天正10年) | ■本能寺の変 | 9才 |
●1584年 (天正12年) | ■小牧・長久手の戦い | 11才 |
●1587年 (天正15年) | ■バテレン追放令 | 14才 |
●1588年 (天正16年) | ■刀狩令 | 15才 |
●1590年 (天正18年) | ■家康江戸城に入る | 17才 |
●1592年 (文禄元年) | ■文禄の役(〜1596) | 19才 |
●1597年 (慶長2年) | ■慶長の役 | 24才 |
●1600年 (慶長5年) | ■関が原の戦い | 27才 |
●1603年 (慶長8年) | ■江戸幕府開府 | 30才 |
●1604年 (慶長9年) | ■朱印船貿易始まる | 31才 |
●1607年 (慶長12年) | ■第1回朝鮮通信使来る | 34才 |
●1609年 (慶長14年) | ■オランダ人に通商許可 | 36才 |
●1612年 (慶長17年) | ■幕府直轄領に禁教令 | 39才 |
●1612年 (慶長17年) | ■駿府の銀座を江戸に移す | 39才 |
●1614年 (慶長19年) | ■大阪冬の陣 | 41才 |
●1615年 (元和元年) | ■大阪夏の陣 | 42才 |
●1617年 (元和3年) | ■日光東照宮社殿竣工 | 44才 |
●1617年 (元和3年) | ■吉原遊郭の開設許可 | 44才 |
●1624年 (寛永元年) | ■スペイン船の来航禁止 | 51才 |
●1629年 (寛永6年) | ■女舞・女歌舞伎の禁止 | 56才 |
●1637年 (寛永14年) | ■島原の乱 | 64才 |
●1639年 (寛永16年) | ■ポルトガル船の来航禁止 | 66才 |
●1641年 (寛永18年) | ■平戸商館を長崎出島に移す | 68才 |
●1643年 (寛永20年) | ■田畑永代売買禁止令 | 70才 |
・柳生 宗矩 | 1571年〜1646年 (元亀2年〜正保3年) | +2 |
・徳川 秀忠 | 1579年〜1632年 (天正7年〜寛永9年) | -6 |
・春日 局 | 1579年〜1643年 (天正7年〜寛永20年) | -6 |
沢庵宗彭
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沢庵 宗彭(たくあん そうほう、旧字体: 澤庵 宗彭、天正元年12月1日(1573年12月24日) - 正保2年12月11日(1646年1月27日)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての臨済宗の僧。大徳寺住持。諡は普光国師(300年忌にあたる昭和19年(1944年)に宣下)。号に東海・暮翁など。
注釈
- ^ 後の正保元年(1644年)、土岐頼行は東海寺に上山の春雨庵を模した塔中を沢庵のために建立している。
- ^ 「大徳寺難儀に及び申し候時は、柳生殿と堀丹州両人の外に、さまで笑止とも申す人はこれ無し候。我身を大事に皆々存じて、其の時分はのがれぬ人達も、よそに見ており申し候」」
- ^ 「両寺の衆侶、積年の愁眉一時にひらけ、喜ぶことかぎりなし。和尚富貴に親して栄幸あるを謗るもの有りしかど、ここに至って前言を恥じるもの少なからずとか」[2]
- ^ なお、『不動智神妙録』の原本は現存せず、沢庵から柳生宗矩に書き贈ったという事実を証する史料はないが、沢庵の作であり、しかも柳生宗矩のために書いたということは当時から認められていたようであり、今日では定説となっている(同書)。
- ^ 「上方よりの知音にて候。紫野(大徳寺)の昔から参徒にて、内縁ふかき人」
- ^ 慶長16年(1611年)の豊臣秀頼からの招きを断っている[5]。
- ^ 慶長16年、細川忠興から自らが立てた寺の住職になることを依頼されたが、これを拒否している[5]。
- ^ 慶長17年、浅野幸長が面会しに来た時は裏口から逃げて対面しなかったという[5]。
- ^ 元和3年(1617年)に黒田長政から父黒田如水の供養のために博多に移した崇福寺の開眼供養に招かれた時も拒否している[5]。
- ^ これを以って、佐和山城での縁により、沢庵が石田三成に好意を持っており、三成を見捨てた豊臣家や、敵対した豊臣系東軍大名との交流を拒絶したからではないかとする説もある[6]。
出典
沢庵宗彭(たくあん そうほう)
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「Y十M 〜柳生忍法帖〜」の記事における「沢庵宗彭(たくあん そうほう)」の解説
万松山東海寺住職。天樹院の依頼で十兵衛を女達に紹介した。柳生家とは十兵衛の父・宗矩の代から懇意にしている。徳高く名声もあり、将軍家にも顔が利く。江戸では堀の女たちに潜伏場所を提供し、彼女たちの会津行には弟子僧の竜王坊、十乗坊、心華坊、嘯竹坊、多聞坊、雲林坊、薬師坊らとともに同行する。南光坊天海に対しては過去の経緯から心から尊敬と恩情を抱いている。
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沢庵宗彭(たくあん そうほう)
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「柳生忍法帖」の記事における「沢庵宗彭(たくあん そうほう)」の解説
品川東海寺の開山たる高僧だが武芸にも通じ、千姫の依頼を受けて十兵衛を指南役として紹介するとともに、自らも加藤明成への報復に協力する。
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沢庵宗彭(登場シリーズ:『2』『3』)
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「剣豪 (元気のゲームソフト)」の記事における「沢庵宗彭(登場シリーズ:『2』『3』)」の解説
東海寺に登場。武蔵と主人公の架け橋となる。『3』のみ使用可能。槍を使う。
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沢庵宗彭(たくあん そうほう)
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「バガボンド」の記事における「沢庵宗彭(たくあん そうほう)」の解説
姫路城城主の池田輝政、柳生石舟斎など様々な有力な人物と人脈を持つ僧。
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