関が原の戦いとは?

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せきがはら‐の‐たたかい〔‐たたかひ〕【関ヶ原の戦い】

慶長5年1600関ヶ原で、石田三成らの西軍と、徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い小早川秀秋寝返りにより東軍大勝し、石田三成らは処刑され、豊臣秀頼60万石大名転落した。これにより徳川氏覇権確立した。


関ヶ原の戦い

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関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代慶長5年9月15日西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦関ヶ原合戦とも呼ばれる[4]。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある[注釈 1][5]




注釈

  1. ^ 近衛前久書状(慶長5年9月20日付)、三河物語には「青野カ原ニテノ合戦」となっている。東照宮御実紀においては「関原青野が原に陣取て、関原の戦」と記載されている。また、吉川広家の書状や「慶長記略抄」所収の狂歌でも「青野か原」と記されている(関ケ原 戦いの場所は「青野カ原」 合戦直後の文書に記載 毎日新聞 2016年4月4日)。近衛前久書状では「大垣表」という記載もある。
  2. ^ なお、この二派を、東軍・西軍と呼んだのは後世のことである。
  3. ^ 藤木は「太閤蔵入地をめぐる政権中枢の大名たちの暗闘のなかに、すでに関ケ原戦への予兆をはっきりと読み取ることができる」と述べている。
  4. ^ 宝永5年(1708年)に成立したとされる木村高敦の『武徳安民記』などを史料として用いた岩澤愿彦は、この時の伏見の徳川家康邸に参集した大名を福島正則・池田輝政・森忠政・織田有楽・黒田如水・黒田長政・藤堂高虎・有馬則頼・金森長近・新庄直頼・新庄直忠・蜂須賀家政・山内一豊・有馬豊氏・京極高次・高知兄弟・脇坂安治・伊達政宗・大谷吉継・堀秀治・最上義光・田中吉政らであるとしている。そして、大坂の前田利家邸に参集した大名を毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家・細川忠興・加藤清正・加藤嘉明・浅野幸長・佐竹義宣・立花宗茂・小早川秀包・小西行長・長宗我部盛親・岩城・原・熊谷・垣見・福原・織田秀信・織田秀雄・石田三成・増田長盛・浅野長政・長束正家・前田玄以・鍋島直茂・有馬晴信・松浦鎮信らであるとしている[32][33]
  5. ^ この7名は史料によってメンバーに違いが存在するが、ここでは近年の研究において採用されている慶長3年閏3月5日付家康書状の宛所(宛名)の7名を記す。
  6. ^ 徳川家の大名は多くが領国の北側に配されている。ただし、井伊の様に軍監として東海道先発隊に加わったり、大久保忠隣の様に秀忠の補佐として中山道隊に加わったりと若干の入れ替えはある。
  7. ^ 「森家先代実録」によれば森忠政は自領である川中島に待機するよう家康から厳命されており中山道隊参加の形跡は一切無い。また川中島待機を命じる家康からの書状も森家に現存している。
  8. ^ 真田昌幸の西軍転身を受けて家康より帰領申し付け。よって中山道隊には不参加で在国[53]
  9. ^ 工藤章興によると関ヶ原の本戦に参加したとしている[54]。古来より同族で同じく東軍についた古田重然(古田織部)と混同されており、本戦で戦ったのを重然とする史料(太田牛一『慶長記』)もある。
  10. ^ 原文では「鍋嶋」としか表記されておらず、実名は不明。
  11. ^ 諏訪勝則作成の表(『歴史読本』780号 新人物往来社、2004年)掲載のでは一忠。
  12. ^ 黄母衣衆や、織田信吉織田長次が布陣したとされる。
  13. ^ 古田重然という説もある。
  14. ^ これについて、中山道軍の遅参のため徳川本軍は合戦で大きな役割を果たすことができず、外様大名に戦功を挙げられてしまい、そのため戦後処理で主導権を取りづらくなったことが原因であるとの説がある。
  15. ^ 吉橋村は三成の母の出身地である杉野村の近隣であり、同村の三珠院または飯福寺が秀吉と三成が初めてであった「三杯の茶(三献茶)」の舞台であったとする伝承がある[145]
  16. ^ 旧暦10月18日に自刃したとする説もある。
  17. ^ 慶長10年(1605年)毛利家御前帳に29万8480石2斗3合と記されている。
  18. ^ 慶長15年(1610年)に領内検地の後、幕閣とも協議し高直し
  19. ^ ただし、これについては吉川氏は関ヶ原以前より毛利氏庶家の筆頭の地位に過ぎず、万一の際の毛利宗家継承権を有していた長府毛利家徳山毛利家とは同列には出来ないとする見解もある[152]
  20. ^ 厳密には「慶長三年御蔵納目録」作成時点での数字。それ以降大名への給付によって減少していると考えられる。

出典

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  169. ^ 白峰旬小山評定は本当にあったのか?、渡邊大門編 「家康伝説の嘘」 『柏書房』 、2015年。 
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  171. ^ 本多隆成「小山評定の再検討」『織豊期研究』14号、2012年。
  172. ^ 本多隆成「「小山評定」再論 : 白峰旬氏のご批判に応える」『織豊期研究』第17号、2015年。
  173. ^ 笠谷 2007、p44-47
  174. ^ 笠谷和比古編 『徳川家康 ─その政治と文化・芸能─』 宮帯出版社、2016年、53-54頁。 
  175. ^ 水野伍貴「小山評定の歴史的意義」『地方史研究』第67巻第2号、2017年。
  176. ^ 桐野作人『関ヶ原 島津退き口』学研パブリッシング、2013年、111頁~。
  177. ^ 10月2日吉川広家宛黒田長政起請文、10月3日黒田長政宛吉川広家書状、10月3日黒田長政・福島正則宛吉川広家起請文
  178. ^ 山本 2012
  179. ^ 山本洋「『陰徳太平記』の成立事情と吉川家の家格宣伝活動」『山口県地方史研究』第93号、2005年。
  180. ^ 山本 2012
  181. ^ 山本洋「『陰徳太平記』編述過程における記事の改変について」『軍記と語り物』第44号、2008年。
  182. ^ 『黒田家譜』は東軍の先陣諸隊を中央・左・右の3軍に分けて記しており、福島隊は左軍に属したとしている。
  183. ^ 笠谷和比古『関ヶ原合戦と近世の国制』思文閣出版、2000年、69-73頁。
  184. ^ 藤本正行「関ヶ原合戦で家康は小早川軍に鉄砲を撃ち込ませてはいない」『歴史読本特別増刊』特別増刊、1984年2月。
  185. ^ 三池 2007, p. 222-224.
  186. ^ 跡部信「高台院と豊臣家」『大阪城天守閣紀要』第34号、2006年。
  187. ^ 本多博之「豊臣政権下の筑前」『西南地域史研究』第11号、1996年。
  188. ^ 渡邊大門「関ヶ原合戦における小早川秀秋の動向」『政治経済史学』599・600号、2016年。
  189. ^ 関ケ原古戦場の整備”. 岐阜県庁. 2017年9月1日閲覧。
  190. ^ プレイライフ編集部 (24 September 2020). "【関ケ原の戦いが1分でわかる】一度見れば絶対に忘れない!大人は説明できないと恥ずかしい??". プレイライフ. 2020年9月27日閲覧
  191. ^ ワーテルローと関ケ原、「姉妹古戦場」に日本経済新聞』夕刊2017年9月1日




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