三好房一とは? わかりやすく解説

三好房一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/09 04:35 UTC 版)

 
三好房一
時代 戦国時代後期 - 江戸時代初期
生誕 天文23年(1554年
死没 慶長19年7月12日1614年8月17日
別名 新右衛門尉
戒名 道印
官位 従五位下丹後守
幕府 江戸幕府 旗本
主君 三好康長織田信長豊臣秀吉徳川家康秀忠
氏族 三好氏
父母 父:三好長房
長直
テンプレートを表示

三好 房一(みよし ふさかず)は、戦国時代武将安土桃山時代大名江戸時代初期の旗本通称は新右衛門尉、丹後守。

略歴

同族の三好康長に属していたが、後に織田信長に従い、野尻・草部等の戦いで功があった[1][2]

その後、羽柴秀吉に仕えて馬廻黄母衣衆、次いで赤母衣衆に選ばれた[2]

文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役では肥前名護屋城に在陣した[2]。秀吉の死後は、有馬則頼を介して徳川家康に接近[1]

慶長5年(1600年)、徳川家康の会津征伐に加わり、『廃絶録』によれば、この当時、1万石の知行を有していた[2]。理由や経緯は書かれていないが、この1万石は同年中に没収されている[3]。東軍に属して9月15日の関ヶ原の戦いの戦闘にも参加した[2]

戦後は家康に仕えて、その功績によって望みの土地に恩賞を与えると言われて河内国を選び[1]、河内国内に2,300石の知行地を新恩として与えられ、駿府相伴衆となった[4][2]

慶長10年(1605年)4月、徳川秀忠が参内した際には、これに供奉。

慶長19年(1614年駿府において死去。享年61。

脚注

  1. ^ a b c 堀田 1922, p. 1070.
  2. ^ a b c d e f 谷口 1995, p. 427.
  3. ^ 近藤瓶城 編「国立国会図書館デジタルコレクション 纂録五十四・廃絶録」『史籍集覧. 第11冊』1926、1926年、11頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920318/417 国立国会図書館デジタルコレクション 
  4. ^ 高柳 & 松平 1981, p. 239.

参考文献





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「三好房一」の関連用語

三好房一のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



三好房一のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの三好房一 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS