寺部城の戦いとは? わかりやすく解説

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寺部城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/25 14:45 UTC 版)

寺部城の戦い
戦争:鈴木重辰の離反
年月日永禄元年(1558年2月5日
場所:寺部城
結果:松平元康の勝利
交戦勢力
松平軍(今川氏 鈴木氏
指導者・指揮官
松平元康 鈴木重辰  
徳川家康の戦い

寺部城の戦い(てらべじょうのたたかい)は、永禄元年(1558年2月5日三河国加茂郡(現在の愛知県豊田市)の寺部城で起こった戦い。寺部城攻めとも。三河支配の強化をはかる今川義元と、それに反発する三河国衆が衝突して発生した三河忩劇の一環で、この戦いは松平元康(後の徳川家康)の初陣としても知られる。

経過

1558年に寺部城主の鈴木重辰が今川義元より離反し、織田信長へ鞍替えした。これを受けた義元は松平元康に寺部城攻めを命じた[1]。元康らは同年2月5日に上野城主酒井忠尚の加勢を受け、寺部城を攻撃した[2]。松平元康は火攻めを用いて寺部城を攻略、鈴木重辰は討ち死にした[3]。さらに寺部城攻撃の後、元康は周辺の広瀬、挙母、梅坪、伊保など織田方の諸城も攻め、石ヶ瀬において水野信元と戦い、これを破った(石ヶ瀬川の戦い[1]。戦いの後、義元は元康へ恩賞として松平家旧領のうち山中300貫文を還付し、腰刀を贈った[1]

その後、寺部鈴木氏は再び今川氏に服従し、時期は不詳であるが寺部城の城主に復帰している[2]

逸話

元康は初陣に際し、「敵この一城にかぎるべからず。所々の敵城よりもし後詰せばゆゝしき大事なるべし。先枝葉を伐取て後本根を断つべし」といって寺部城下を焼き討ちし、家臣の酒井正親石川清兼らは「吾々戦場に年をふるといへども。これほどまでの遠慮はなきものを。若大将の初陣よりかゝる御心付せたまふ事。行々いかなる名将にかならせたまふらん」と元康の知略に感服したという(『徳川実紀』「東照宮御実紀巻第二」)[4]

参加武将

松平軍
鈴木氏

脚注

  1. ^ a b c 渡邊大門 徳川家康の初陣で、今川義元を感嘆させた寺部城の戦いとは、2025年9月8日閲覧。
  2. ^ a b 寺部城”. 古城址探訪. 2022年9月22日閲覧。
  3. ^ 御当家紀年録, p. 43.
  4. ^ 徳川実紀 第壹編』、2025年9月8日閲覧。

参考文献

関連項目




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