寺部城の戦い
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寺部城の戦い | |
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戦争:鈴木重辰の離反 | |
年月日:永禄元年(1558年)2月5日 | |
場所:寺部城 | |
結果:松平元康の勝利 | |
交戦勢力 | |
松平軍(今川氏) | 鈴木氏 |
指導者・指揮官 | |
松平元康 | 鈴木重辰 † |
寺部城の戦い(てらべじょうのたたかい)は、永禄元年(1558年)2月5日に三河国加茂郡(現在の愛知県豊田市)の寺部城で起こった戦い。寺部城攻めとも。三河支配の強化をはかる今川義元と、それに反発する三河国衆が衝突して発生した三河忩劇の一環で、この戦いは松平元康(後の徳川家康)の初陣としても知られる。
経過
1558年に寺部城主の鈴木重辰が今川義元より離反し、織田信長へ鞍替えした。これを受けた義元は松平元康に寺部城攻めを命じた[1]。元康らは同年2月5日に上野城主酒井忠尚の加勢を受け、寺部城を攻撃した[2]。松平元康は火攻めを用いて寺部城を攻略、鈴木重辰は討ち死にした[3]。さらに寺部城攻撃の後、元康は周辺の広瀬、挙母、梅坪、伊保など織田方の諸城も攻め、石ヶ瀬において水野信元と戦い、これを破った(石ヶ瀬川の戦い)[1]。戦いの後、義元は元康へ恩賞として松平家旧領のうち山中300貫文を還付し、腰刀を贈った[1]。
その後、寺部鈴木氏は再び今川氏に服従し、時期は不詳であるが寺部城の城主に復帰している[2]。
逸話
元康は初陣に際し、「敵この一城にかぎるべからず。所々の敵城よりもし後詰せばゆゝしき大事なるべし。先枝葉を伐取て後本根を断つべし」といって寺部城下を焼き討ちし、家臣の酒井正親や石川清兼らは「吾々戦場に年をふるといへども。これほどまでの遠慮はなきものを。若大将の初陣よりかゝる御心付せたまふ事。行々いかなる名将にかならせたまふらん」と元康の知略に感服したという(『徳川実紀』「東照宮御実紀巻第二」)[4]。
参加武将
- 松平軍
- 鈴木氏
脚注
参考文献
- 児玉幸多 編『御当家紀年録』集英社〈訳注日本史料〉、1998年6月19日、43頁。ISBN 4-08-197030-0。
関連項目
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