松平重吉の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 07:15 UTC 版)
『寛政譜』で具体的な事績が伝わるのは、3代目とされる重吉と、その叔父にあたるとされる阿知和玄鉄からである。 重吉は永正9年(1512年)、15歳の時に戦いに馳せ参じて首級を挙げたという。これに感じた松平昌安(大草松平家)が松平清康に勧めたことで清康の近侍となったといい、以後広忠・家康の3代に仕えた。松平家が今川家に従属し、家康が駿府で生活していた時代には鳥居忠吉とともに総奉行を務め、永禄元年(1558年)の寺部城の戦い(家康の初陣)では家康から軍功抜群と賞され、今川義元からも感状を受けたという。天正元年(1573年)の松平信康の初陣(足助城攻め)では信康に鎧を着せる役を務めた。天正3年(1575年)の二俣城の戦いでは76歳の老齢でありながら先陣を切って城下に押し寄せる武勲を挙げたという。 阿知和玄鉄については、元亀2年(1571年)に武田氏に与同した一揆勢の岡崎への攻撃を青山忠門とともに防いだことが伝えられている。玄鉄とその息子はいずれも戦死を遂げ、『寛政譜』ではその子孫に関する記述はないが、玄鉄の娘が本多忠勝の妻となっている。
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