松平頼常誕生との関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 07:29 UTC 版)
承応元年(1652年)、水戸藩の継嗣であった25歳の光圀は側近くに仕えていた侍女弥智(親量院)と関係を持ち、弥智は光圀の子を懐妊した。しかし、兄の子を跡継ぎとするため男子を望まなかった光圀は、これを堕胎するよう伊藤友玄に命じた。史料により若干の違いはあるが、友玄は光圀の兄・松平頼重に相談し、頼重が生まれた子を引き取ることになり、伊藤友玄の江戸小石川の屋敷で秘密裏に男子が誕生し、生まれた男子は高松に送られ成長した。 瀬谷義彦は『新装水戸の光圀』で、「こうして見ると、三木家が光圀の出生を実現させ、その隣家であり、しかも三木之次の娘を妻とした伊藤玄蕃が、光圀の子の頼常の誕生を助けたというのは、いかにも不思議な因縁話のような気がするが、これは、高松の方に伝わる話でも大筋において変わりがないので、事実とみてさしつかえあるまい。」としている。
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