松平頼職領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 07:51 UTC 版)
@media all and (max-width:720px){body.skin-minerva .mw-parser-output div.mw-graph{min-width:auto!important;max-width:100%;overflow-x:auto;overflow-y:visible}}.mw-parser-output .mw-graph-img{width:inherit;height:inherit} [全画面表示] 関連地図(福井県北東部) 元禄10年(1697年)4月11日、5代将軍徳川綱吉が紀州藩邸を訪問した際、紀州藩2代藩主徳川光貞の三男・松平頼職(18歳。後の紀州藩4代藩主徳川頼職)と、四男・松平頼方(14歳。後の8代将軍徳川吉宗)にそれぞれ越前国内で3万石ずつが与えられ、大名として取り立てられた。 兄の頼職に与えられたのは丹生郡内63か村、弟の頼方に与えられたのは丹生郡・坂井郡内45か村(葛野藩)である。頼職・頼方に与えられた領知を検分するため、紀州藩から神谷与一右衛門(頼職から代官に任命された人物)と大畑才蔵が派遣され、7月から8月にかけて巡察を行い、頼職領の陣屋は丹生郡高森村に置くことが決定された。 高森藩で支配にたずさわった家臣は合計14人で、葛野藩も同数である。知行地63か村を北山組・平井組・樫津組の3つの組に分けて各組に組頭(大庄屋)を置いたが、こうした郷村支配のあり方や年貢の収納方法については幕府領時代のものを踏襲したとみられる。宝永元年(1704年)に藩は樫津組組頭の田中甚助に下河原村で新田開発を請け負わせているが、資金難や廃藩により失敗している。 宝永2年(1705年)5月、頼職の兄で紀州藩3代藩主の徳川綱教が嗣子なく死去した。このため、弟である頼職が跡を継ぐこととなり、6月に相続が認められた。これにより高森藩は一旦廃藩となり、収公されている。なお、頼職は同年9月に死去し、弟の頼方が紀州藩を継いだために10月に葛野藩も廃藩となって領知は収公された。
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