本庄松平家領
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宝永2年(1705年)10月、遠州浜松藩主松平資俊の次男の松平宗長に、旧高森藩領のうち2万石が与えられ、高森陣屋を引き継いだ。資俊は徳川綱吉の母である桂昌院の甥であり、宗長が新封2万石を与えられたのは同年6月に没した桂昌院の遺言によるという。 松平頼職領時代(3万石)と松平宗長領(2万石)の差の1万石については、頼方に与えられて葛野藩は4万石に加増されたという説もあるが、『福井県史』では幕府領のままであり、葛野藩廃藩後に幕府葛野陣屋の管轄下に入ったとされている。 宗長は定府大名で領知に一度も赴くことなく、代官を派遣して藩領を治めた。宝永6年(1709年)に死去したため、弟の松平宗胡(6歳)を養子に立てて跡を継がせたが、宗胡も正徳元年(1711年)11月に死去したため、高森藩は無嗣断絶となった。
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