本庄氏を名乗る時期と名の意味
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/06 01:43 UTC 版)
「本庄時家」の記事における「本庄氏を名乗る時期と名の意味」の解説
『吾妻鑑』に、安貞3年(1229年)1月3日の年始の儀に、本庄四郎左衛門尉の名で記されているのが文献上での初見である。貞永2年(1233年)1月3日の年始の儀にも本庄左衛門尉としてその名が記されている。また、嘉禎4年(1238年)2月17日には、鎌倉幕府4代将軍藤原頼経の入洛(京都へ行くの)に際し、192騎いる先陣の御所随兵の22番として、本庄四郎左衛門尉時家、25番に本庄新左衛門尉朝次、他、四方田氏一族など児玉党武士の名前が見られる。これらの事から13世紀初めの末から中頃の初めにかけて、すでに本庄氏を名乗っていた事が分かる(「本庄」と言う文字だけなら、12世紀末の文治4年(1188年)7月13日条にも見られる)。 いくら庄氏本宗家が遠くに土着したからと言って、分家が本宗家を勝手に名乗れば、庄氏同士で争いになりかねない。いつ本宗家が帰って来るか分からない状況で、分家である時家が、「本宗家の庄氏(本庄)」を名乗れるはずがない。時家が継いだのは児玉党の本宗家と言う形式的な地位であって、庄氏の家督ではない。本庄と言う名は、「庄氏の本(モト)の地=家元を守る」と言った意味合いの方が高く、庄氏発祥地を主張した名である(庄氏が各地に拡大する中で生じた)。
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