本庄氏の元祖に関する議論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 14:21 UTC 版)
『吾妻鑑』には、13世紀中頃の記述に、「本庄三郎左衛門(家次)」と「本庄四郎左衛門尉(時家)」の名が確認できるが、人名の誤記や混同が多い資料であることを考えると、本庄三郎左衛門は庄三郎右衛門の誤記と考えられる。家長の三男である家次はそのまま備中庄氏となったため、本庄氏を初めて名乗ったのは弟の時家の可能性が高い。西日本で活動していた家次は、弟の時家に対し、『吾妻鏡』の記述が余りにも少なく、本庄氏を称していたかは怪しい。したがって、本庄四郎左衛門尉時家が本庄氏の元祖である可能性の方が大きい。諸々の混同の結果、地元の人間にさえ、本庄氏とは「本宗家の庄氏と言う意味である」という誤説が定着したものと考えられる。 そもそも頼家は本庄氏を名乗っていないし、そのような伝承もない。地元の人間はおろか専門家も頼家を本庄氏の元祖とは認知していない。頼家は本庄氏の元祖ではなく、まして若くして戦死した頼家が備中庄氏の武将になったというのも誤りである。 頼家が本庄氏を称していなかった根拠の一つとして、栗崎村の栗崎館の西方に建立された菩提寺の名称が挙げられる。「荘氏を宥める為の寺」と言う意味で宥荘寺であるのだから、その後世においても荘(庄)小太郎頼家として、当地(地元)に伝えられてきた。頼家が戦死した時、家長の次男である定綱(家綱)はすでに他の領地に土着していたものと見られ、三男である家次が、頼家の養子としては都合がよかったものと見られる(そのため、系図上では家次が次男であると記述されたものと推測されている)。結果的にはその弟の時家が党を継いだ。
※この「本庄氏の元祖に関する議論」の解説は、「庄頼家」の解説の一部です。
「本庄氏の元祖に関する議論」を含む「庄頼家」の記事については、「庄頼家」の概要を参照ください。
- 本庄氏の元祖に関する議論のページへのリンク