本庄村とは? わかりやすく解説

本庄村

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/15 02:34 UTC 版)

本庄村(ほんじょうそん、ほんじょうむら)は、日本各地にあった地方自治体。

本荘[1]と表記する場合もあった。

関連項目

脚注

  1. ^ 平部嶠南『日向地誌』(1884年)における日向国諸県郡本荘村など



本庄村

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 08:44 UTC 版)

丈六町」の記事における「本庄村」の解説

江戸時代から明治22年にかけて存在した勝浦郡徳島藩領。村高寛文4年高辻帳675石余、享保元年高辻帳天明7年高辻帳も同高、「天保郷調」930石余、「旧高旧領」949石余うち蔵入地289石余・丈六寺109石余、残余奈良井長造ら藩士10名の知行地となっている。なお文10年阿波国々御高都帳では887石余(民政資料)。 阿波志によれば耕地陸田が上等30町2反余・中等1町3反余・下等3町8反余、水田が上等30町2反余・中等23町1反余・下等11町6反余と見える。また寛保神社によれば神社十二社権現八幡宮があり、その別当田林と見える(続御古雑抄1)。ほかに丈六寺がある。 丈六寺は、白雉元年創建といわれ、境内から平安時代の瓦が出土した。後に阿波国7代細川成之金岡用兼招聘宗派曹洞宗改め中興開山し、伽藍整備した寛永6年本堂再建はじめとして多く再建改修の手加えられた。 当では勝浦川下流肥沃な土地利用して米麦多産された。幕末から明治維新にかけて米延利忠太寺子屋開き30人余を集めていた(勝浦郡志)。明治4年徳島県同年名東県明治9年高知県経て明治13年に再び徳島県所属明治8年本庄小学校開校されたが明治19年宮井小学校統合された。明治22年多家良村大字となる。

※この「本庄村」の解説は、「丈六町」の解説の一部です。
「本庄村」を含む「丈六町」の記事については、「丈六町」の概要を参照ください。

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