幕末から明治
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戊辰戦争では、藩が改易される窮地を救った会津藩主保科正之への恩義もあることから奥羽越列藩同盟に加わり、同盟を主導した件で4万石を減封。明治2年(1869年)、版籍奉還により上杉茂憲は、米沢藩知事となる。米沢新田藩を併合し、米沢藩の最終石高は15万7千石(実高35万石)。 明治4年(1871年)廃藩置県により米沢県が置かれた。同年、県域の調整(屋代の再編入、分領支配の終了など)があり、置賜郡全部を県域とする置賜県が発足。 明治5年(1872年)最後の藩主・斉憲は、城内にあった謙信の霊屋(御堂)を鷹山とともに合祀し上杉神社とした。明治6年(1873年)には城の建物が全て破却された。二の丸にあった藩の政庁はそのまま郡役所、町役場(後に市役所)として利用した。 明治7年(1874年)には城跡は松が岬公園として市民に一般開放された。明治9年(1876年)、謙信霊柩は上杉家廟所へ、上杉神社を現在の地である本丸跡に移した。明治29年(1896年)二の丸跡に上杉家14代当主・茂憲伯爵邸が建てられた。明治35年(1902年)上杉神社が別格官幣社となったのを期に、鷹山を摂社・松岬神社(本丸の東隣、世子御殿跡)に分祀した。
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幕末から明治
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アメリカ合衆国からの要求をきっかけに、日本は西洋諸国に門戸を開くようになった。1858年には日米修好通商条約や日仏修好通商条約などが結ばれたことで、外交使節や貿易商と共に多くの宣教師たちが来日した。 1846年4月30日にバーナード・ジャン・ベッテルハイム医療宣教師が琉球王国に到着し、8年間迫害の中で宣教活動を行い、琉球語に聖書を翻訳した。
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