幕末〜戊辰戦争での活動
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土佐藩の医師の家に生まれた英吉は、坂本龍馬の義兄高松順蔵の私塾で学び、家業を継ぐため大坂の適塾で緒方洪庵に師事し、医術を学んだ。 しかし、志士・吉村寅太郎に心酔し、文久3年(1863年)8月、伊吹周吉の名で天誅組に加わって大和挙兵に参陣し、伍長として各地を転戦する。後に亀山社中で行動を共にする池内蔵太と一緒に、主将中山忠光の側に仕え、天誅組壊滅後は忠光を護衛して大坂の長州藩邸へ逃れた。その後、英吉は忠光に伴って長州に落ち延び、再起を図る。長州において石田英吉と名乗り、諸藩の脱藩浪士が中心となって結成された忠勇隊に属し、元治元年7月(1864年8月)禁門の変に参加するも負傷し、再び長州に逃れた。英吉はそこで高杉晋作と合流し、奇兵隊創設に貢献するなどして過ごした。 その後、同郷の坂本龍馬が海援隊の前身である亀山社中を結成するとこれに加わり、長岡謙吉とともに重きをなした。第二次長州征伐(四境戦争・長幕戦争)では小倉藩への渡海作戦において坂本指揮下のユニオン号に砲手長として乗り組み、戦果を挙げた。 坂本の死後、海援隊では長岡に従い、後進の指導にあたるなど組織をまとめるが、菅野覚兵衛らと共に長崎振遠隊に加入する。戊辰戦争では隊長として戦闘に参加し、慶応4年(1868年)7月19日に長崎港からイギリス船フィロン号に乗り組み、海路で秋田に上陸。同月24日に秋田領舟川に到着し、26日に勤王派の秋田城下に入り、角間川の戦いに臨み、庄内藩の酒井忠篤の軍と戦ったものの敗走した。その後、南部藩降伏の報を受けて、9月29日南部藩雫石に転戦し雫石・橋場口の戦いを起こした。10月2日には盛岡城へ入った。
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