幕末から明治初期とは? わかりやすく解説

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幕末から明治初期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 06:58 UTC 版)

樺太」の記事における「幕末から明治初期」の解説

1853年嘉永6年同年秋、ネヴェリスコイ海軍大佐久春古丹ムラヴィヨフ哨所(砦)を築き国旗掲揚一方的に樺太全島領有宣言哨所築いた場所に日本人倉庫があったのでこの建物接収したロシア軍艦対馬占領事件帝国主義南下政策参照 ロシア使節プチャーチン国境交渉通商求め長崎来航日本全権筒井肥前守・川路聖謨交渉した決裂北緯50度線分割案検討されたが、日本の行政オムシャ宗門人別改帳参照)が及ぶ地域西岸北緯50°より少し北のホロコタン(幌渓、露名:ピレオ。樺太西岸におけるアイヌ居住地北限。)以南東岸北緯48.5°のフヌプ(元泊郡元泊村班伸)以南)は日本領、それより北もロシアの支配及ばない無主地として国境交渉当時南樺太住民大部分南部日本人アイヌ及び和人)、北東部幌内川流域)のウィルタニヴフのみ。。 1854年嘉永7年千島列島、全樺太島カムチャッカ半島までも明記した改正蝦夷全図」なる(加陽豊島 毅作) 5月18日 - クリミア戦争影響を受け、ロシア船4隻が来航しわずか8か月ほどで駐留ロシア兵撤収してクシュンコタン(久春古丹)を去った1854年安政元年6月12日目付堀利照・勘定吟味役村垣範正らが北蝦夷地クシュンコタンに渡海、西は来知志湖近くのライチシカまで、東はオハコタン(栄浜郡白縫村箱田)まで調査。このとき普請役間宮鉄次郎東海岸タライカ(敷香郡敷香町多来加)まで、支配勘定上川次郎西海岸北緯50度のすぐ北のホロコタン(幌渓、露名ピリポ)まで、松前藩今井八九郎ニヴフ居住地北樺太ナッコ(ラッカ)まで調査日露和親条約により、日露国境樺太島上で定めず是まで仕来りによること(国境未確定のまま棚上げ先送り)を決定した安政年間1854 年1860年)から明治初期にかけて、安房勝山藩小浜藩黒羽藩烏山藩笠間藩加納藩各藩もタライカ湾の静香川(敷香郡敷香町)近辺警固拠点構えた東岸でフヌプより北に居住するアイヌ(タライカ人)は60名で、多来加湾岸は東岸におけるアイヌ居住地北限であるが、特に多来加湖周辺ではニヴフウィルタと混住していた。 1855年安政2年) - 樺太を含む蝦夷地は再び公議御料幕府直轄領)となり、秋田藩が白主と久春古丹陣屋築き警固行ったまた、この年以降番人足軽取立て武装化冬季警固した1856年安政3年幕府樺太東岸中知床岬長浜郡知床村以北および西岸のノタサン(野田郡野田町以北樺太直捌場所とした。箱館奉行所の支配組頭向山源太夫が5~8月樺太調査のため訪れている。このとき松浦武四郎同行(『北蝦夷餘誌』)。 箱館奉行鳥井之助を北蝦夷地差配人任命1857年安政4年越後出身蝦夷地御用方・松川弁之助東岸・東冨トンナイ)領のオチョポカ(富内郡富内村落帆)に漁場(ぎょば)を開拓する越後国蒲原郡井栗村大工職平次郎の妻よつ、樺太身内亡くなり輪在領ワアレ(栄浜郡白縫村輪荒)まで一人旅した佐藤広右エ門、東海岸のマアヌイと西海岸久春内取締所と番屋(漁舎)、東海岸の東冨領オチョポッカや栄浜領の礼にも会所運上屋)を建て漁場経営に当った。 7月 - ロタノスケ率いロシア軍ナヨロ泊居郡名寄村)に上陸しクシニンナイに移動、クスナイスキー哨所建設した日本警護固く8月1日撤退安政3年4年(185657)頃、幕府施設でクシュンコタンに大砲4基が設置され台場1カ所が存在陸上交通について、西岸は「通行屋」5カ所、「小休所」3カ所、ナヤス(名好郡名好村)以北のみに「露宿」あり。亜庭湾岸は「通行屋」8カ所と、「小休所」3カ所。東岸は「通行屋」5カ所と、「小休所」5カ所。 1858年安政5年幕府大野藩土井利忠北蝦夷地警固開拓命じた大野藩準領ウショロ(城)場所)。ウショロ場所には、名好郡やホロコタン(幌渓、露名:ピレオ)も含まれた。同年クシュンナイ周辺箱館奉行石狩役所直捌場所となった石狩御直場所)。 10代目・山田文右衛門清富)が差配人並に任じられ栄浜領のシュシュウシナイ(栄浜郡栄浜村栄浜)など東海岸に数か所の漁場開いた米屋喜代作(慶応二年以降佐野孫右衛門)等も東冨領イヌヌシナイ(栄浜郡栄浜村主)やマクンコタン(元泊郡帆寄村馬群潭)に漁場開いた。 マーヌイ(栄浜郡白縫村真縫)にマヌエ哨所建設少数ロシア兵定住し、はじめて日露両国人の部分的な雑居状態が生じる。 1859年安政6年7月26日 - ムラヴィヨフは、自ら軍艦7隻を率いて品川来航樺太全土は露領と威嚇主張したが、虎ノ門天徳寺における江戸幕府ムラヴィヨフ会談席上幕府外国事務遠藤胤統酒井忠毘通してこれを完全に退けた1860年万延元年樺太南部警固仙台会津秋田庄内の4藩となる。 佐藤広右衛門中知床岬北東海岸漁場7カ所を開く(皆別領)。 1862年文久2年安房勝山藩藩士渡辺隆之助を派遣東岸シスカ敷香郡敷香町)に漁場開設勤番所、クシュンコタン、シラヌシ、西トンナイ真岡郡真岡町)、ワーレ(栄浜郡白縫村輪荒)、クシュンナイの5ケ所となる。 1863年文久3年) - 樺太南部警固仙台秋田庄内の3藩となる。 1865年慶応元年) - ロシア軍艦が久春内来航し大砲二門を揚陸強引に哨所を築く。 1866年慶応2年2月 - 久春内幕史拘束事件 9月 - ロシア兵はナイブチ(内淵)川(栄浜郡栄浜村内淵川口近く小屋建てた10月 - 樺太国画定交渉幕府遺露使節団14名が、サンクトペテルブルク派遣された。正使外国奉行小出秀実副使石川利政団員山川浩橋本 など。 12月12日 - フランスプロシアなどを経由した使節団サンクトペテルブルク到着皇帝アレクサンドル2世謁見1867年慶応3年幕府使節団ロシア側で、1月2日から2月7日まで8回の交渉が行われるも正式合意至らず2月25日樺太島仮規則調印樺太全島日露雑居地 とされた。以降ロシア軍隊増派して、北緯48以南日本本拠地である樺太南端亜庭湾岸までの軍事的制圧着手5月 - 使節団日本へ帰国6月 - 栖原角兵衛(寧幹)は樺太漁業出稼を命ぜられる。同年12月樺太東海岸漁業出稼を命ぜられ、栖原家が経営した漁場58か所に及んだ1868年慶応4年4月12日 - 箱館裁判所(間4月24日箱館府改称)の管轄となった6月末 - 岡本監輔箱館府行政官としてクシュンコタン(大泊郡大泊町渓)に着任し公議所を置くとともに島内8ヶ所に出張所設置し官員派遣同年神仏分離令出される文明開化参照 1869年明治2年) - 開拓使直轄領となり、北蝦夷地樺太国改称この年からロシア囚人を送込み始める。 1870年明治3年2月13日 - 樺太開拓使開拓使から分離して久春古丹開設される1871年明治4年8月7日 - 樺太開拓使閉鎖し開拓使再度統合する1872年明治5年壬申戸籍編製アイヌは旧百姓身分だったため平民となった。羅卒(巡査)を樺太派遣8月9日9月23日)、散髪脱刀令公布文明開化一環旧暦12月2日1872年12月31日)、天保暦からグレゴリオ暦改暦1873年明治6年) - ロシア兵破壊活動消火活動妨害行った函泊(大泊郡大泊町山下出火事件を受け、羅卒を増員1875年(明治8年)2月13日平民苗字必称義務令公布文明開化一環

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樺太」の記事における「幕末から明治初期」の解説

1853年嘉永6年ロシアが、北樺太北端クエグト岬に露国旗を掲げ領有宣言同年秋、ネヴェリスコイ海軍大佐一方的に樺太全島領有宣言ロシア使節プチャーチン国境交渉通商求め長崎来航日本全権筒井肥前守・川路聖謨交渉した決裂北緯50度線分割案検討されたが、日本の行政オムシャ宗門人別改帳参照)が及ぶ地域西岸北緯50°より少し北のホロコタン(幌渓、露名:ピレオ。樺太西岸におけるアイヌ居住地北限。)以南東岸北緯48.5°のフヌプ(元泊郡元泊村班伸)以南)は日本領、それより北もロシアの支配及ばない無主地として国境交渉当時北樺太住民アイヌによって西岸スメレンクル東岸はニクブンと呼ばれたニヴフのほか、東岸幌内川ロモウ川の流域に住むウィルタ西岸最南部・ホロコタンに少数日本人アイヌ及び和人)のみ。間宮海峡対岸外満洲でさえ清国領であり、ロシア領ではなかった。 1854年安政元年6月支配勘定上川次郎西海岸北緯50度のすぐ北のホロコタン(幌渓、露名ピリポ)まで、松前藩今井八九郎ニヴフ居住地北樺太ナッコ(ラッカ)まで調査日露和親条約により、日露国境樺太島上で定めず是まで仕来りによること(国境未確定のまま棚上げ先送り)を決定した1854年嘉永7年千島列島、全樺太島カムチャッカ半島までも明記した改正蝦夷全図」なる(加陽豊島 毅作) 1856年安政3年同年海軍大尉N.M.チハチョーフがニヴフ居住地北樺太西海岸の土衣にドウーエ哨所建設1858年安政5年当時樺太居住するロシア人ニヴフ居住地北樺太西岸・オッチシ(落石、露名:アレクサンドロフ・サハリンスキー)に12名のみである。 1865年慶応元年) - 岡本監輔が、樺太最北端ガオト岬(北緯55度)に至り、「大日本領」と記した標柱建てる1867年慶応3年) - 幕府使節団ロシア側で、1月2日から2月7日まで8回の交渉が行われるも正式合意至らず2月25日樺太島仮規則調印樺太全島日露雑居地 とされた。

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