幕末から明治初期
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1853年(嘉永6年)同年秋、ネヴェリスコイ海軍大佐は久春古丹にムラヴィヨフ哨所(砦)を築き、国旗を掲揚し一方的に樺太全島の領有を宣言。哨所を築いた場所に日本人の倉庫があったのでこの建物を接収した。ロシア軍艦対馬占領事件や帝国主義・南下政策も参照 ロシア使節プチャーチン、国境交渉と通商を求め長崎に来航。日本全権筒井肥前守・川路聖謨と交渉したが決裂。北緯50度線分割案も検討されたが、日本の行政(オムシャや宗門人別改帳も参照)が及ぶ地域(西岸は北緯50°より少し北のホロコタン(幌渓、露名:ピレオ。樺太西岸におけるアイヌ居住地北限。)以南、東岸は北緯48.5°のフヌプ(元泊郡元泊村班伸)以南)は日本領、それより北もロシアの支配が及ばない無主地として国境交渉。当時、南樺太の住民は大部分が南部の日本人(アイヌ及び和人)、北東部(幌内川流域)のウィルタやニヴフのみ。。 1854年(嘉永7年)千島列島、全樺太島やカムチャッカ半島までも明記した「改正蝦夷全図」なる(加陽・豊島 毅作) 5月18日 - クリミア戦争の影響を受け、ロシア船4隻が来航しわずか8か月ほどで駐留のロシア兵を撤収してクシュンコタン(久春古丹)を去った。 1854年(安政元年)6月12日、目付堀利照・勘定吟味役村垣範正らが北蝦夷地クシュンコタンに渡海、西は来知志湖近くのライチシカまで、東はオハコタン(栄浜郡白縫村箱田)まで調査。このとき普請役間宮鉄次郎は東海岸タライカ(敷香郡敷香町多来加)まで、支配勘定・上川侍次郎西海岸の北緯50度のすぐ北のホロコタン(幌渓、露名ピリポ)まで、松前藩士今井八九郎はニヴフ居住地・北樺太ナッコ(ラッカ)まで調査。 日露和親条約により、日露国境を樺太島上で定めず是までの仕来りによること(国境は未確定のまま棚上げ先送り)を決定した。 安政年間(1854 年~1860年)から明治初期にかけて、安房勝山藩、小浜藩、黒羽藩、烏山藩、笠間藩、加納藩の各藩もタライカ湾の静香川(敷香郡敷香町)近辺に警固の拠点を構えた。東岸でフヌプより北に居住するアイヌ(タライカ人)は60名で、多来加湾岸は東岸におけるアイヌ居住地北限であるが、特に多来加湖周辺ではニヴフやウィルタと混住していた。 1855年(安政2年) - 樺太を含む蝦夷地は再び公議御料(幕府直轄領)となり、秋田藩が白主と久春古丹に陣屋を築き警固を行った。また、この年以降番人を足軽に取立て武装化し冬季も警固した。 1856年(安政3年)幕府、樺太東岸の中知床岬(長浜郡外知床村)以北および西岸のノタサン(野田郡野田町)以北を樺太直捌場所とした。箱館奉行所の支配組頭・向山源太夫が5~8月に樺太の調査のため訪れている。このとき松浦武四郎も同行(『北蝦夷餘誌』)。 箱館奉行、鳥井権之助を北蝦夷地差配人に任命。 1857年(安政4年)越後出身の蝦夷地御用方・松川弁之助が東岸・東冨藍(トンナイ)領のオチョポカ(富内郡富内村落帆)に漁場(ぎょば)を開拓する。 越後国蒲原郡井栗村の大工職の平次郎の妻よつ、樺太で身内が亡くなり輪在領ワアレ(栄浜郡白縫村輪荒)まで一人で旅した。 佐藤広右エ門、東海岸のマアヌイと西海岸の久春内に取締所と番屋(漁舎)、東海岸の東冨藍領オチョポッカや栄浜領の魯礼にも会所(運上屋)を建て漁場の経営に当った。 7月 - ロタノスケ率いるロシア軍がナヨロ(泊居郡名寄村)に上陸しクシニンナイに移動、クスナイスキー哨所を建設したが日本の警護が固く8月1日撤退。 安政3年4年(1856・57)頃、幕府の施設でクシュンコタンに大砲4基が設置された台場1カ所が存在。陸上交通について、西岸は「通行屋」5カ所、「小休所」3カ所、ナヤス(名好郡名好村)以北のみに「露宿」あり。亜庭湾岸は「通行屋」8カ所と、「小休所」3カ所。東岸は「通行屋」5カ所と、「小休所」5カ所。 1858年(安政5年)幕府は大野藩主土井利忠に北蝦夷地警固と開拓を命じた(大野藩準領ウショロ(鵜城)場所)。ウショロ場所には、名好郡やホロコタン(幌渓、露名:ピレオ)も含まれた。同年、クシュンナイ周辺が箱館奉行石狩役所の直捌場所となった(石狩御直場所)。 10代目・山田文右衛門(清富)が差配人並に任じられ、栄浜領のシュシュウシナイ(栄浜郡栄浜村栄浜)など東海岸に数か所の漁場を開いた。 米屋喜代作(慶応二年以降の佐野孫右衛門)等も東冨藍領イヌヌシナイ(栄浜郡栄浜村犬主)やマクンコタン(元泊郡帆寄村馬群潭)に漁場を開いた。 マーヌイ(栄浜郡白縫村真縫)にマヌエ哨所を建設。少数のロシア兵が定住し、はじめて日露両国人の部分的な雑居状態が生じる。 1859年(安政6年)7月26日 - ムラヴィヨフは、自ら軍艦7隻を率いて品川に来航。樺太全土は露領と威嚇、主張したが、虎ノ門天徳寺における江戸幕府とムラヴィヨフの会談の席上、幕府は外国事務掛遠藤胤統、酒井忠毘を通してこれを完全に退けた。 1860年(万延元年)樺太南部の警固は仙台・会津・秋田・庄内の4藩となる。 佐藤広右衛門、中知床岬北東海岸に漁場7カ所を開く(皆別領)。 1862年 (文久2年)安房勝山藩、藩士渡辺隆之助を派遣、東岸のシスカ(敷香郡敷香町)に漁場を開設。 勤番所、クシュンコタン、シラヌシ、西トンナイ(真岡郡真岡町)、ワーレ(栄浜郡白縫村輪荒)、クシュンナイの5ケ所となる。 1863年(文久3年) - 樺太南部の警固は仙台・秋田・庄内の3藩となる。 1865年(慶応元年) - ロシア軍艦が久春内に来航し、大砲二門を揚陸し強引に哨所を築く。 1866年(慶応2年)2月 - 久春内幕史拘束事件 9月 - ロシア兵はナイブチ(内淵)川(栄浜郡栄浜村内淵)川口近くに小屋を建てた。 10月 - 樺太国境画定交渉の幕府遺露使節団14名が、サンクトペテルブルクに派遣された。正使は外国奉行小出秀実、副使は石川利政、団員に山川浩、橋本悌蔵 など。 12月12日 - フランス、プロシアなどを経由した使節団がサンクトペテルブルクに到着。皇帝アレクサンドル2世に謁見。 1867年(慶応3年)幕府使節団とロシア側で、1月2日から2月7日まで8回の交渉が行われるも正式合意に至らず、2月25日に樺太島仮規則調印。樺太全島を日露雑居地 とされた。以降、ロシアは軍隊を増派して、北緯48度以南や日本の本拠地である樺太南端・亜庭湾岸までの軍事的制圧に着手。 5月 - 使節団が日本へ帰国。 6月 - 栖原角兵衛(寧幹)は樺太漁業出稼を命ぜられる。同年12月樺太東海岸漁業出稼を命ぜられ、栖原家が経営した漁場は58か所に及んだ。 1868年(慶応4年)4月12日 - 箱館裁判所(間4月24日に箱館府と改称)の管轄となった。 6月末 - 岡本監輔、箱館府の行政官としてクシュンコタン(大泊郡大泊町楠渓)に着任し公議所を置くとともに、島内8ヶ所に出張所を設置し官員を派遣。 同年、神仏分離令が出される。文明開化も参照 1869年(明治2年) - 開拓使直轄領となり、北蝦夷地を樺太国と改称。この年からロシアは囚人を送込み始める。 1870年(明治3年)2月13日 - 樺太開拓使が開拓使から分離して、久春古丹に開設される。 1871年(明治4年)8月7日 - 樺太開拓使を閉鎖し、開拓使に再度統合する。 1872年(明治5年)壬申戸籍編製。アイヌは旧百姓身分だったため平民となった。羅卒(巡査)を樺太に派遣。 8月9日(9月23日)、散髪脱刀令公布。文明開化の一環。 旧暦12月2日(1872年12月31日)、天保暦からグレゴリオ暦に改暦。 1873年(明治6年) - ロシア兵が破壊活動や消火活動妨害を行った函泊(大泊郡大泊町山下)出火事件を受け、羅卒を増員。 1875年(明治8年)2月13日、平民苗字必称義務令公布。文明開化の一環。
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幕末から明治初期
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1853年(嘉永6年)ロシアが、北樺太北端クエグト岬に露国旗を掲げ、領有を宣言。同年秋、ネヴェリスコイ海軍大佐は一方的に樺太全島の領有を宣言。 ロシア使節プチャーチン、国境交渉と通商を求め長崎に来航。日本全権筒井肥前守・川路聖謨と交渉したが決裂。北緯50度線分割案も検討されたが、日本の行政(オムシャや宗門人別改帳も参照)が及ぶ地域(西岸は北緯50°より少し北のホロコタン(幌渓、露名:ピレオ。樺太西岸におけるアイヌ居住地北限。)以南、東岸は北緯48.5°のフヌプ(元泊郡元泊村班伸)以南)は日本領、それより北もロシアの支配が及ばない無主地として国境交渉。当時、北樺太の住民はアイヌによって西岸はスメレンクル、東岸はニクブンと呼ばれたニヴフのほか、東岸の幌内川とロモウ川の流域に住むウィルタ、西岸最南部・ホロコタンに少数の日本人(アイヌ及び和人)のみ。間宮海峡対岸の外満洲でさえ清国領であり、ロシア領ではなかった。 1854年(安政元年)6月、支配勘定・上川侍次郎西海岸の北緯50度のすぐ北のホロコタン(幌渓、露名ピリポ)まで、松前藩士今井八九郎はニヴフ居住地・北樺太ナッコ(ラッカ)まで調査。 日露和親条約により、日露国境を樺太島上で定めず是までの仕来りによること(国境は未確定のまま棚上げ先送り)を決定した。 1854年(嘉永7年)千島列島、全樺太島やカムチャッカ半島までも明記した「改正蝦夷全図」なる(加陽・豊島 毅作) 1856年(安政3年)同年、海軍大尉N.M.チハチョーフがニヴフ居住地・北樺太西海岸の土衣にドウーエ哨所を建設。 1858年(安政5年)当時、樺太に居住するロシア人はニヴフ居住地の北樺太西岸・オッチシ(落石、露名:アレクサンドロフ・サハリンスキー)に12名のみである。 1865年(慶応元年) - 岡本監輔が、樺太最北端ガオト岬(北緯55度)に至り、「大日本領」と記した標柱を建てる。 1867年(慶応3年) - 幕府使節団とロシア側で、1月2日から2月7日まで8回の交渉が行われるも正式合意に至らず、2月25日に樺太島仮規則調印。樺太全島を日露雑居地 とされた。
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