幕末から維新へ
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福山に戻ると、主君・正弘が遺した誠之館の運営と藩主・阿部正教(正弘の甥・養子)の教育にあたる。ところが、わずか3年で正教も急死、跡をその弟の阿部正方が継承し、藤陰は君側御用係となった。 文久3年(1863年)、警備のために藩兵を率いて京都に向かうことになった主君の諮問に答えて『国論主義書』を著す。この中で、近いうちに徳川将軍家と朝廷が争う事態になる可能性を指摘した上で、阿部家は徳川家を朝廷へ恭順に導くのが譜代大名としての忠義であることを説いた。やがて幕府による長州征伐が決定されると、日本国内の混乱が増すばかりであることを正方に訴えて出陣を諫めるものの聞き入れられず出陣する。だが、藩主・正方は陣中で病に倒れ、指揮を家老・内藤角右衛門に委ね粕渕(島根県邑智郡)に留まるが、本隊は石見国益田(島根県益田市)で大村益次郎率いる長州藩と交戦して敗走する。その後、幕府軍が長州藩に敗北したため撤兵することになった。 慶応3年(1867年)、正方は無嗣のまま病死。これにより本来、阿部家はお家断絶となるはずであるが、大政奉還からわずか1か月後の混乱期に乗じて、正方の棺を寝室においたまま、未だに病気であると偽りの発表を続けた。そうこうしているうちに戊辰戦争が発生し、徳川譜代であり帰趨を鮮明にしない福山藩に対して長州藩の軍が福山城向かって進撃。藤陰は重臣達と対応を協議し、かつて著した『国論主義書』の趣意通り新政府軍に加わってその中で徳川家を救う方法を考えるという方針となり、福山藩家老・三浦義建と共に藩を代表して長州藩との交渉を行った。長州藩側はここで初めて福山藩が藩主不在の事実を確認して対応を協議し、新政府に参加していた広島藩主・浅野長勲の実弟・正桓を次期藩主として迎え入れることを条件に福山藩の恭順が許されることになった。しかし、新政府に加わり徳川家を救おうとする藤陰の意図とは裏腹に福山藩は新政府に命じられるがままであった。 明治2年(1869年)、版籍奉還によってその職務を終え隠居。廃藩置県後、旧藩主・正桓の要請によって阿部家家政差配(かつての側用人)に就任して東京に移住。正桓の相談役をつとめながら、『文章規範筆記』『阿部家傳』『詩書筆記』などを著述して晩年を過ごした。 明治9年(1876年)、死去。墓は主君・阿部正弘と同じ谷中墓地内にある。 昭和3年(1928年)、正五位を追贈された。
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幕末から維新へ
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安政5年3月12日(1858年4月25日)、日米修好通商条約締結の条約案について、その内容の撤回を要求する書状に連署した(廷臣八十八卿列参事件)。 文久2年5月11日(1862年6月8日)には、非蔵人の行う国事書類の筆写を担う国事御用書記の一人に任じられた。しかし、同年12月9日(1863年1月28日)に国事御用掛が設置されたことにより解任される。元治元年6月25日(1864年7月28日)には、関白二条斉敬に対して、横浜鎖港実施を幕府へ要求する一条家門流三十八卿建議に参加している。 こうした動きもむなしく、明治維新を迎えた。
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