幕末から立藩・廃藩まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 04:28 UTC 版)
幕末にあっては、三士と呼ばれる東沢瀉、栗栖天山、南部五竹の尊王活動はあったが、藩自体は佐幕的態度を示していた。元治元年(1864年)から慶応元年(1865年)にかけての2度にわたる長州征討に際しては、第12代当主・吉川経幹が長州藩と幕府の間に立って周旋を行い、幕府方の派兵の延期を取り付けたものの、高杉晋作などのようにこれを宗家である長州藩への背信行為と見なした長州藩士もおり、この戦争で功績のあった清末藩に岩国領を加増すればよいとまで言われた。しかし四境戦争においては芸州口で幕府軍と交戦し、これを撃破することに貢献した。 経幹は慶応3年(1867年)3月20日に死去するが、毛利敬親の命令でその死が隠された。大政奉還後の慶応4年(1868年)3月13日、新政府によって岩国藩は独立した藩として正式に認められた。経幹は生存しているものとして城主格兼正式な藩主として認められ、岩国藩初代藩主となった。経幹は明治元年12月28日(1869年2月9日)に長男の経健に家督を譲って隠居した形となった。 明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県により岩国県となり、同年11月15日に山口県に編入された。 吉川家は明治2年に華族に列し、明治17年(1884年)の華族令で子爵に叙せられた。
※この「幕末から立藩・廃藩まで」の解説は、「岩国藩」の解説の一部です。
「幕末から立藩・廃藩まで」を含む「岩国藩」の記事については、「岩国藩」の概要を参照ください。
- 幕末から立藩・廃藩までのページへのリンク