幕末から明治へ
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慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いに於いてその火蓋を切った戊辰戦争は、それまで政争の中心から遠かった小藩の与板藩をも、妥協を許さぬ対立抗争へと引き込んだ。大政奉還後、井伊家宗家の彦根藩が譜代筆頭にもかかわらず新政府側に藩論を転向させたことから(井伊家は代々勤皇を是としていた点もあり)、与板藩もそれに従った。近隣の諸藩は陸奥会津藩の影響もあり、佐幕色を強めて新政府軍と戦ったが、与板藩は前記の事情から新政府軍側に就く構図となり、孤立した存在となった。また当時中立を表明していた長岡藩と接触し、藩の事情を説明していたが、その後長岡藩は一転して同盟軍に加盟している。 藩主の直安は2月まで江戸藩邸に所在したが、その後国許入りする。4月に入り、新政府軍の先発隊が進出すると、直安は高田で新政府軍総督と会見し、恭順の意を示した。4月5日に新政府軍の命を受けて京都御所警備のために上洛した。4月11日には古屋佐久左衛門が率いる衝鋒隊が今井信郎を派遣して、与板藩に1万両と兵糧米500俵を要求したが、7000両余しか蓄えがない与板藩はそのほぼすべてを供出した。無一文になった与板藩は、長岡藩家老の河井継之助に泣き付いて同藩から7000両の貸付を得ている。北陸道軍が幕府領だった出雲崎に進駐すると、5月14日にはこれに応じて出雲崎口に出兵した。 5月19日早朝、新政府軍は膠着した戦況を打開するために三島郡本大島村(現長岡市大島新町)から信濃川を渡河し、長岡城を急襲し落城させた。 その後、奥羽越列藩同盟軍は与板城を攻撃するために、会津藩・桑名藩・上山藩兵で組織された軍を地蔵堂(燕市)・大河津(長岡市)経由で与板へ進めた。与板藩家老も藩兵を率いて進軍し、新政府軍に援軍を要請した。5月27日、与板手前の金ヶ崎で両軍が衝突。一斉射撃を掛けるが、会津藩兵の応戦に遭い退却した。5月28日早朝には援軍が到着した。軍議が開かれ、金ヶ崎へは長州・須坂藩兵を配置、塩之入峠口には薩摩・長州・飯山・戸山・与板藩兵を配置した。同盟軍の3倍の兵力である。塩之入方面では一斉射撃により善戦するが、金ヶ崎では戦況は不利となった。塩之入方面が突出すれば退路を断たれる為、新政府軍は至急退却を始めた。しかし同盟軍の勢いは強く、驚いた新政府軍は与板城に火を付け、大手門・切手門以外が焼失した。このため城下は混乱に陥った。その後も6月まで与板周辺で攻防戦が続いたが、同盟軍から与板城下を守り抜いた。 近隣の三根山藩は1回目の長岡城落城後新政府軍に参加すべく、家老・神戸十郎右衛門を与板藩に送り援軍を求めた。しかし与板藩では援軍を出す余裕が全くなく、直接長岡の新政府軍との交渉を勧めたが、結局三根山藩は新政府軍と交渉出来なかった。そのため、三根山藩は奥羽越列藩同盟の一員である庄内藩軍の要求に応じ、出兵せざるを得なかった。以後庄内藩軍と行動を共にし、野積、寺泊、出雲崎と戦闘を繰り広げた。しかし、新潟・長岡が新政府軍の手に落ちると三根山藩は南北から挟撃される形となり、新政府軍に恭順の意を示した。その後は与板藩他3藩と連合して庄内への進撃を命ぜられ、一度は共に戦った庄内藩を敵に回して戦う形となった。 結果として、与板藩は新政府軍の前進拠点としての役割を果たすこととなった。この戦いでの総出兵数は166名、戦死者5名、負傷者20名である。なお当時の藩士数は士族253名、卒族1203名と記録されている。 明治2年(1869年)に戊辰戦争の功労を顕彰して、明治政府より賞典金2000両が給与された。同年版籍奉還が行われ、藩主直安は知藩事となり華族に列している。明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県により旧藩領は与板県となり、同年11月20日には柏崎県に編入、さらに1873年(明治6年)6月10日には新潟県に編入された。1884年(明治17年)、藩主家は子爵となっている。
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幕末から明治へ
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1871年(明治4年)、廃藩置県により小野県となった。小野県は同年中に廃され、姫路県・飾磨県を経て兵庫県に編入された。 1884年(明治17年)、最期の藩主末徳のとき、華族令により末徳は子爵に叙せられた。なお、末徳の3女の満喜子は建築家で近江兄弟社を設立したウィリアム・メレル・ヴォーリズの妻となっている。
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幕末から明治へ
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第8代藩主頼紹の時代に幕末の動乱期を迎える。慶応4年/明治元年(1868年)の戊辰戦争において、小松藩は新政府軍に加わり、総勢51人(足軽・小者も含む)が出兵した。小松藩兵は京都で明石藩・小野藩・三日月藩・足守藩などの諸藩兵と合流してともに越後国に出陣し、新潟・長岡・村上などを転戦した(北越戦争)。この中で、戦死者1名・重傷者1名・軽傷者1名を出している。 明治2年(1869年)6月、版籍奉還にともない頼紹は藩知事に任命されたが、間もなく病没している。頼明が藩知事を継いだが、明治4年(1871年)7月、廃藩置県によって小松藩は廃止され、小松県となった。小松県は同年のうちに廃され、松山県・石鉄県を経て愛媛県に編入された。 明治17年(1884年)、一柳紹念(最後の藩主・頼明の弟)が華族令に伴い子爵に叙せられた。明治期に活躍した小松藩出身者には、黒川通軌(陸軍中将、東宮武官長、男爵)がいる。
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幕末から明治へ
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第12代藩主斉憲の時代に、米沢藩は幕末を迎える。斉憲は佐幕派として文久3年(1863年)に上洛して京都警衛を果たし、翌年からは嗣子茂憲が上洛して2年間京都警衛を果たしたため、その功績により慶応2年9月(1866年10月)に屋代郷3万7248石を幕府より与えられ、米沢藩の知行高は19万石近くまで増加した。大政奉還が行われると、藩論は佐幕派と尊皇派に分かれた。開明派で西国雄藩とも近い軍事奉行の千坂高雅が、慶応4年(1868年)正月には薩長に従い3000人を率いて上洛、弾薬の海上運搬もおこなったが、藩主斉憲は保科正之の旧恩があるとして幕府に味方した。 慶応4年4月に江戸城の無血開城が成り、戊辰戦争がいよいよ東山道に波及し始めると、米沢藩はかつての保科正之への恩義もあることから会津藩と新政府軍の間に立って仲介に努めたが、その行動はかえって新政府軍から疑いの目を向けられる結果を招いた。するとこれを察知した米沢藩の方でも、新政府軍は会津攻撃が終了したあとも北進して東北の佐幕派諸藩を攻撃するらしいという風聞を信じて驚き慄き、双方疑心暗鬼のうちに米沢藩は奥羽越列藩同盟に加わって仙台藩や会津藩とともに新政府軍に対峙するという好ましからぬ状況にはまってしまった。仙台藩が奥州街道・常磐方面を担当したのに対し、米沢藩はその故地でもある越後を担当したが、長岡藩と共同して戦った北越戦争において新政府軍に敗退、羽越国境の大里峠まで迫られたところで、同年8月18日新政府軍方から思いがけない報せが藩主の正室 貞姫を経由して米沢藩にもたらされた。東山道先鋒総督府は土佐藩の迅衝隊を中心に編成された部隊だったが、その幹部である谷干城・片岡健吉・伴権太夫らは連名で米沢藩に恭順を薦める内容の書状を書き、これを土佐藩主山内豊資 → その三女で米沢藩主上杉茂憲の正室となっていた貞姫 → 藩主茂憲へと送付したのである。これを受けて米沢藩は24日までに藩論をまとめて恭順した。その後は新政府軍のために勤皇し、庄内藩攻撃のために兵を出し、会津藩に対してもその非を説き恭順することを諭した。 米沢藩は戦後の処置で、明治元年(1868年)12月に4万石を減封されて14万7000石となった。また藩主斉憲は隠居となり、嫡子の茂憲が家督を継いだ。明治2年(1869年)に蔵米支給の支藩米沢新田藩を併合した。 米沢藩は宮島誠一郎の指導のもと、版籍奉還などの明治政府の改革を積極的に支持していくことで「朝敵」の汚名をそそぐことに尽力した。明治4年7月14日(1871年8月29日)廃藩置県によって米沢県となり、11月に置賜県を経て、山形県に編入された。 藩主家は明治2年6月17日の版籍奉還と同時に華族に列し、明治17年(1884年)7月7日の華族令で伯爵を授けられた。上杉茂憲は藩主退任後、沖縄県令として県政の再建に尽力している。 藩主のほか米沢藩士の中にも池田成章(置賜県判事、沖縄県書記官など)、森長義(深津県権参事、小田県参事など)のように、明治政府の官吏となる人材も輩出した。
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