幕末から明治へとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 幕末から明治への意味・解説 

幕末から明治へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 07:06 UTC 版)

与板藩」の記事における「幕末から明治へ」の解説

慶応4年1868年)、鳥羽・伏見の戦いに於いてその火蓋を切った戊辰戦争は、それまで政争中心から遠かった小藩与板藩をも、妥協許さぬ対立抗争へと引き込んだ大政奉還後、井伊家宗家彦根藩譜代筆頭にもかかわらず新政府側に藩論転向させたことから(井伊家代々勤皇を是としていた点もあり)、与板藩もそれに従った近隣諸藩陸奥会津藩影響もあり、佐幕色を強めて新政府軍戦ったが、与板藩前記事情から新政府軍側に就く構図となり、孤立した存在となった。また当時中立表明していた長岡藩接触し、藩の事情説明していたが、その後長岡藩一転して同盟軍加盟している。 藩主の直安は2月まで江戸藩邸所在したが、その後国許入りする。4月入り新政府軍先発隊が進出すると、直安は高田新政府軍総督会見し恭順の意を示した4月5日新政府軍の命を受けて京都御所警備のために上洛した。4月11日には古屋佐久左衛門率い衝鋒隊今井信郎派遣して与板藩1万両と兵糧米500俵を要求したが、7000余し蓄えがない与板藩はそのほぼすべてを供出した。無一文になった与板藩は、長岡藩家老河井継之助泣き付いて同藩から7000両の貸付得ている。北陸道軍が幕府領だった出雲崎進駐すると、5月14日にはこれに応じて出雲崎口に出兵した。 5月19日早朝新政府軍膠着し戦況打開するために三島郡大島村(現長岡市大島新町)から信濃川渡河し、長岡城急襲し落城させた。 その後奥羽越列藩同盟軍は与板城攻撃するために、会津藩桑名藩上山藩兵で組織された軍を地蔵堂燕市)・大河津(長岡市経由与板進めた与板藩家老も藩兵を率いて進軍し新政府軍援軍要請した5月27日与板手前金ヶ崎両軍衝突一斉射撃掛けるが、会津藩兵の応戦遭い退却した5月28日早朝には援軍到着した軍議開かれ金ヶ崎へは長州須坂藩兵を配置、塩之入峠口には薩摩長州飯山戸山与板藩兵を配置した同盟軍の3倍の兵力である。塩之入方面では一斉射撃により善戦するが、金ヶ崎では戦況は不利となった。塩之入方面が突出すれば退路を断たれる為、新政府軍至急退却始めた。しかし同盟軍勢い強く驚いた新政府軍与板城火を付け大手門切手門以外が焼失したこのため城下混乱陥ったその後6月まで与板周辺攻防戦続いたが、同盟軍から与板城下を守り抜いた近隣三根山藩1回目長岡城落城新政府軍参加すべく、家老神戸十郎右衛門与板藩送り援軍求めた。しかし与板藩では援軍を出す余裕が全くなく、直接長岡新政府軍との交渉勧めたが、結局三根山藩新政府軍交渉出来なかった。そのため、三根山藩奥羽越列藩同盟一員である庄内藩軍の要求応じ出兵せざるを得なかった。以後庄内藩軍と行動を共にし、野積、寺泊出雲崎戦闘繰り広げた。しかし、新潟長岡新政府軍の手落ちると三根山藩南北から挟撃される形となり、新政府軍恭順の意を示したその後与板藩他3藩と連合して庄内への進撃を命ぜられ、一度は共に戦った庄内藩を敵に回して戦う形となった結果として与板藩新政府軍前進拠点としての役割を果たすこととなった。この戦いで総出兵数166名、戦死者5名、負傷者20名である。なお当時藩士数は士族253名、卒族1203名と記録されている。 明治2年1869年)に戊辰戦争功労顕彰して、明治政府より賞典2000両が給与された。同年版籍奉還が行われ、藩主直安は知藩事となり華族列している。明治4年1871年7月14日廃藩置県により旧藩領は与板県となり、同年11月20日には柏崎県編入、さらに1873年明治6年6月10日には新潟県編入された。1884年明治17年)、藩主家子爵となっている。

※この「幕末から明治へ」の解説は、「与板藩」の解説の一部です。
「幕末から明治へ」を含む「与板藩」の記事については、「与板藩」の概要を参照ください。


幕末から明治へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 10:23 UTC 版)

小野藩」の記事における「幕末から明治へ」の解説

1871年明治4年)、廃藩置県により小野県となった小野県同年中に廃され姫路県飾磨県経て兵庫県編入された。 1884年明治17年)、最期藩主末徳のとき、華族令により末徳は子爵叙せられた。なお、末徳の3女の満喜子は建築家近江兄弟社設立したウィリアム・メレル・ヴォーリズの妻となっている。

※この「幕末から明治へ」の解説は、「小野藩」の解説の一部です。
「幕末から明治へ」を含む「小野藩」の記事については、「小野藩」の概要を参照ください。


幕末から明治へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 15:51 UTC 版)

小松藩」の記事における「幕末から明治へ」の解説

第8代藩主頼紹の時代幕末の動乱期を迎える。慶応4年/明治元年1868年)の戊辰戦争において、小松藩新政府軍加わり総勢51人(足軽小者も含む)が出兵した。小松藩兵は京都明石藩小野藩三日月藩足守藩などの諸藩兵と合流してともに越後国出陣し新潟長岡・村上などを転戦した北越戦争)。この中で戦死者1名・重傷者1名・軽傷者1名を出している。 明治2年1869年6月版籍奉還にともない頼紹は藩知事任命されたが、間もなく病没している。頼明が藩知事継いだが、明治4年1871年7月廃藩置県によって小松藩廃止され小松県となった小松県同年のうちに廃され松山県石鉄県経て愛媛県編入された。 明治17年1884年)、一柳紹念(最後藩主・頼明の弟)が華族令に伴い子爵叙せられた。明治期活躍した小松藩出身者には、黒川通軌陸軍中将東宮武官長男爵)がいる。

※この「幕末から明治へ」の解説は、「小松藩」の解説の一部です。
「幕末から明治へ」を含む「小松藩」の記事については、「小松藩」の概要を参照ください。


幕末から明治へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 15:29 UTC 版)

米沢藩」の記事における「幕末から明治へ」の解説

第12代藩主斉憲の時代に、米沢藩幕末迎える。斉憲は佐幕派として文久3年1863年)に上洛して京都警衛果たし翌年からは嗣子茂憲が上洛して2年京都警衛果たしたため、その功績により慶応2年9月1866年10月)に屋代郷37248石を幕府より与えられ米沢藩知行高19万石近くまで増加した大政奉還が行われると、藩論佐幕派尊皇派分かれた開明派で西国雄藩とも近い軍事奉行千坂高雅が、慶応4年1868年正月には薩長従い3000人を率いて上洛弾薬海上運搬おこなったが、藩主斉憲は保科正之旧恩があるとして幕府味方した慶応4年4月江戸城無血開城成り戊辰戦争がいよいよ東山道波及し始めると、米沢藩はかつての保科正之への恩義もあることから会津藩新政府軍間に立って仲介努めたが、その行動はかえって新政府軍から疑い目を向けられる結果招いた。するとこれを察知した米沢藩の方でも、新政府軍会津攻撃終了したあとも北進して東北佐幕派諸藩攻撃するらしいという風聞信じて驚き慄き、双方疑心暗鬼のうちに米沢藩奥羽越列藩同盟加わって仙台藩会津藩とともに新政府軍対峙するという好ましからぬ状況はまってしまった。仙台藩奥州街道常磐方面担当したのに対し米沢藩はその故地でもある越後担当したが、長岡藩共同して戦った北越戦争において新政府軍敗退羽越国境大里峠まで迫られたところで、同年8月18日新政府軍方から思いがけない報せ藩主正室 貞姫を経由して米沢藩もたらされた。東山道先鋒総督府土佐藩迅衝隊中心に編成された部隊だったが、その幹部である谷干城片岡健吉伴権太夫らは連名米沢藩恭順薦める内容書状書き、これを土佐藩山内豊資その三女で米沢藩主上茂憲の正室となっていた貞姫 → 藩主茂憲へと送付したのである。これを受けて米沢藩24日までに藩論まとめて恭順した。その後新政府軍のために勤皇し、庄内藩攻撃のために兵を出し会津藩に対してもその非を説き恭順することを諭した米沢藩戦後処置で、明治元年1868年12月に4万石減封されて147000となった。また藩主斉憲は隠居となり、嫡子の茂憲が家督継いだ明治2年1869年)に蔵米支給支藩米沢新田藩併合した米沢藩宮島誠一郎指導のもと、版籍奉還などの明治政府改革積極的に支持していくことで「朝敵」の汚名をそそぐことに尽力した明治4年7月14日1871年8月29日廃藩置県によって米沢県となり、11月置賜県経て山形県編入された。 藩主家明治2年6月17日版籍奉還同時に華族列し明治17年1884年7月7日華族令伯爵授けられた。上杉茂憲藩主退任後、沖縄県令として県政再建尽力している。 藩主のほか米沢藩士の中にも池田成章置賜県判事沖縄県書記官など)、森長義深津県参事小田県参事など)のように、明治政府官吏となる人材輩出した

※この「幕末から明治へ」の解説は、「米沢藩」の解説の一部です。
「幕末から明治へ」を含む「米沢藩」の記事については、「米沢藩」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「幕末から明治へ」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「幕末から明治へ」の関連用語

幕末から明治へのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



幕末から明治へのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの与板藩 (改訂履歴)、小野藩 (改訂履歴)、小松藩 (改訂履歴)、米沢藩 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS