天領
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天領(てんりょう)は、江戸時代における江戸幕府の直轄地。天領は俗称であり、ほかに江戸幕府直轄領、徳川幕府領、徳川支配地、幕府領、幕領など様々な呼称がある。これらの呼び名は、正式な歴史用語ではない[1]。
注釈
- ^ a b c 慶安4年(1651年)~承応2年(1653年)分は「関東分御勘定帳無之」とあり、上方分のみの集計かつ年貢の米納・金納の内訳不明。
- ^ a b 承応3年(1654年)、明暦元年(1655年)分は「御勘定帳無之」とあり、石高・年貢高不明。
- ^ a b c d 明暦2年(1656年)、寛文元年(1661年)、延享元年(1673年)、延享2年(1674年)分は「上方御勘定帳無之」とあり、関東分のみの集計。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 元禄9年(1696年)~正徳元年(1711年)分は「内訳無之」とあり年貢の米納・金納の内訳不明。
- ^ a b c d e f g 大河内家記録「御取箇辻書付」では、享保元年(1716年)分が米107万4003石余、享保3年(1718年)分が米112万7189石余、享保7年(1722年)分が米111万5514石余、享保8年(1723年)分が米105万0911石余、享保13年(1728年)分が米118万1658石余、宝暦6年(1756年)分が米133万0262両余、天明7年(1787年)分が年貢高此取146万8770石余となっている。
- ^ a b c d 大河内家記録「年々御取箇辻書付」では天明元年(1830年)分が年貢高此取156万5836石余、天明4年(1784年)分が高436万0520石余、寛政元年(1789年)分が年貢高此取156万5836石余、寛政2年(1790年)分が年貢高此取142万3687石余となっている。
- ^ 文化5年(1808年)分は神宮文庫「勘定出納大略」では米185万1226石余となっている。
- ^ 天保13年(1842年)の分は勝海舟編『吹塵録』所収「天保十三年全国石高内訳」により、年貢高は不明。
注釈
注釈
出典
- ^ a b c d e f g 村上直, 「天領の成立と代官の位置について」, 法政史学48号, 1996年
- ^ 和泉清司, 『徳川幕府領の形成と展開』, 同成社, 2011年.
- ^ 函館市史 通説編2 第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ 序章 世界の中の箱館開港 第2節 箱館奉行の再置と箱館 1 箱館奉行の「預所」と諸任務 6藩分領と奉行「御預所」
- ^ 藤田覚, 「江戸時代前期の幕領石高・年貢量に関する新史料」, 『史学雑誌』, 104 (10), pp. 1777-1786 (1995年).
- ^ a b 大野瑞男, 『江戸幕府財政史論』, 吉川弘文館, 1996年.
- ^ 村上直, 「江戸幕府直轄領の地域的分布について」, 『法制史学』, (25) pp. 1-17 (1973年).
- ^ 村上直, 「江戸後期、幕府直轄領の地域分布について」, 『法制史学』, (34), pp. 60-74 (1982年).
幕府領
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幕府領
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元和5年(1619年)- 正徳2年(1712年) この間、土井利勝の所領に加えられ、2代藩主利隆の時代まで下総古河藩領として治められた後、万治元年(1658年)に3代藩主利重の家督相続に際して弟の利益に1万石で分与された。利益は延宝3年(1675年)に古河藩5代藩主となり、下妻1万石に加えて元の古河藩領から4割減で6万石を相続するが、延宝9年(1681年)に同じ7万石で志摩鳥羽藩へ転封となる。
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幕府領
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幕府領
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豊後高松藩主松平忠昭が大分郡内の府内藩へ転封されると、大分郡のうち46村が幕府領に復帰し、そのうち35村は、正徳2年(1712年)に牧野成央が日向延岡藩へ転入した際に延岡藩領に編入され、最終的に幕府領として残ったのは11村(高松・原・乙津・松岡・真萱・光吉・赤仁田・百木・安田・長野・今三川)であった。このうち今三川村については、「旧高旧領取調帳」の現存写本では欠落している(取調帳の原本および豊後国分の一次写本は既に失われている)。 高松陣屋は日田陣屋と共に郡代の拠点となっていたが、寛政11年(1799年)に幕府は日田での一元管理に方針を転換し、高松陣屋の管轄下にあった大分郡11村は肥前島原藩主・深溝松平忠馮の預地となり、以後は島原藩士が高松陣屋に詰めて管理にあたった。 この村々は慶応3年(1867年)に島原藩預地から熊本藩預地へと変更され、慶応4年8月28日(1868年10月13日)に日田県へと移管された。
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