幕府領の時代
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延宝9年(1681年)7月から高田は幕府領とされ、信濃他の諸大名が2家組・1年交代で城番を勤めた。 水野忠直(信濃松本藩主)と溝口重雄(越後新発田藩主) - 延宝9年から天和2年 相馬昌胤(陸奥中村藩主)と秋田輝季(陸奥三春藩主) - 天和2年から翌年 岩城重隆(出羽亀田藩主)と内藤弌信(陸奥棚倉藩) - 天和3年から翌年 諏訪忠晴(信濃諏訪藩)、仙石政明(信濃上田藩) - 貞享元年から翌年 井上正任(常陸笠間藩主)と堀親貞(信濃飯田藩主) - 貞享2年から貞享3年(ただし親貞は在任中に死去のため、溝口重雄が交替) このような組み合わせで、選ばれた大名はそれぞれ江戸に出府したのち、高田城に入城して、1年間勤めている。これら10名のうち、4万石から5万石が半数を占め、在番大名は主にこのクラスから選ばれたと推測できる。組み合わせのうち石高の多いほうの大名が本丸に居住した。 しかし、これらの在番大名はあくまで1年限りの預かり当番であり、責任ある政治が勤まるわけもなく、高田は荒廃して治安が乱れ、放火や強盗も相次いだ。このため、高田の町民は自衛の組織を創設し、自治体制の強化や防火組織の建設などが行われた。天和2年(1682年)には幕府によって高田藩の検地(天和検地)が行われ、以降における高田の土地支配の基準になった。
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