笠間藩主
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/26 23:59 UTC 版)
1719年、13歳で家督を相続した日向延岡藩主・牧野貞通は、奏者番・寺社奉行・京都所司代を歴任して、1740年に常陸笠間藩に移封をみた。領地の内高は表高を数千石程度下回ることが多かった。幕末期の収穫高を内高ベースで比較した場合、長岡藩の内高は表高の2倍近くある一方で、笠間藩は宗家の長岡藩の約6割しかなかったが、表高は長岡藩を約6000石上回っていた。 辺境の延岡から江戸に比較的近い笠間藩に移封を成功させた貞通は、男子2人(忠敬、忠利)を長岡藩に養子として出した。次代の貞長は、実は牧野忠周の忠敬嫡子認定後に出生した実子であり、当初は牧野姓を許されず、牧野忠寛を幕府へ実弟として届け出た上で長岡藩主とした(長岡市立中央図書館蔵『御附録』)。
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