京都詰・江戸詰に任命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 23:57 UTC 版)
文久2年(1862年)、藩主・牧野忠恭が京都所司代になると継之助も京都詰を命じられ、翌文久3年(1863年)の正月に上洛する。継之助は忠恭に所司代辞任を勧めるも、忠恭はこれを承知しなかった。しかし、4月下旬に欧米に対する攘夷実行が決定されたのをきっかけに忠恭も辞意を決し、6月に認められると忠恭は江戸に戻る。 だが9月、忠恭は今度は老中に任命される。そして継之助は公用人に命じられ江戸詰となると、忠恭に老中辞任を進言する。その際、辞任撤回の説得に訪れた分家の常陸笠間藩主・牧野貞明を罵倒してしまい、結局この責任をとる形で公用人を辞し、帰藩した。
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