幕府軍の出陣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:36 UTC 版)
10月11日、家康は軍勢の指揮を執り駿府を出発した。 12日、豊臣方の真木島昭光が堺の幕府代官を交替させようと堺に向けて出陣している。 23日、家康は二条城に入り、同日秀忠が6万の軍勢の指揮を執り江戸を出発した。 25日、家康は藤堂高虎・片桐且元を呼び、先鋒を命じている。 11月1日、摂関家の当主らが、家康の元に訪れて朔日の祝いを述べた。ところが現任の関白である鷹司信尚のみは、延期された方広寺の大仏の開眼供養に出席しようとしていたことを家康から問題視されて会見を断られてしまう。信尚はそのまま謹慎を余儀なくされ、その後家康が行った禁中並公家諸法度の草案に対する公家たちへの意見聴取の対象にもされることがないまま、翌年閏6月に関白の辞表の提出をしている。 幕府方の動員した兵力は約20万に上った。なお豊臣恩顧の大名である福島正則や黒田長政、加藤嘉明、旗本の平野長泰は江戸城に留め置きとされた。彼らは関ヶ原の戦いで東軍勝利のために尽力したが、これはあくまで不仲であった石田三成の討伐が目的だったため、豊臣家との戦となれば敵方に寝返る可能性があった。なお、江戸城留め置きとされた大名も、その子が大坂に参陣した。 諸大名らの軍勢は揃って江戸から出立したわけではなく、当主が急遽帰国し、各々の国許から(家康らとは別に)指定された集結地点(瀬田・大津・京都郊外、大坂付近など)に集結した。例として、越前福井藩主の松平忠直は当時江戸に滞在していたが、緊急に本国に使者を派遣して出陣を指示、越前松平家附家老の本多富正が軍の指揮を執り越前を出立、近江国大津に軍を進め、同地で江戸からやってきた忠直と合流した、などがある。 11月15日、家康は二条城を出発し、奈良経由で大坂に向かった。 18日、家康は先着していた秀忠と茶臼山陣城にて軍議を行っている。
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