幕府評定所の裁定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 19:30 UTC 版)
美作は隠居し、長治に家督を譲るが、それでも対立と騒動は収まらず、藩政を収拾できなくなった光長は幕府大老酒井忠清に裁定を訴え出た。これを受け、酒井忠清ら幕閣は両派に和解を申し渡した。「寄り合い談合申す間敷」とし、話し合いによる解決を促した。 だがそれでも騒ぎは収まらず、同年4月には美作が高田の町に火を放つ、との流言が広がった。光長は国許で藩士らの鎮撫に努めたため、一旦は騒ぎは収まるが、その光長が参勤交代で主馬、壱岐らと江戸へ行い留守となると、国許ではまた騒ぎが起きた。国許で騒ぎを起こしているのが大蔵と渡辺九十郎と知った光長は、両名に江戸へ来るよう命じる。動きを封じられると思った大蔵と九十郎は、今度は江戸で同志を糾合しようと図った。このことが幕閣に知られ、先に出した和解の命を無視された形となった酒井忠清ら幕閣は激怒した。 光長の従兄弟である姫路藩主松平直矩が酒井忠清と事件の処分を相談し、同年10月に幕府評定所は、お為方の大蔵、主馬、片山外記、中根長左衛門、九十郎にそれぞれ、人心を惑わした罪で大名家へのお預けとする処分を下した。大蔵は長州藩、主馬は子と共に松江藩にそれぞれ預けられた。 以上、幕閣の裁定でお為方は敗れ、一方の「逆意方」と呼ばれた美作派に処分者はなく、延宝8年(1680年)2月に小栗長治(大六)が将軍に拝謁して元服している。将軍親族である光長の筆頭家老家とはいえ、この将軍御目見元服は極めて身分の高い扱いであった。お為方は美作が長治を藩の後継者にしようとしている、さらに大老に贈賄をしたに違いないと怒り、200人近くが脱藩する騒ぎとなった。
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