幕府経済政策の曲がり角
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 16:44 UTC 版)
17世紀初頭の江戸幕府の開始時からしばらくの間、幕府財政は健全財政を保っていた。当初、幕府の財政を支えていたのが天領からの年貢収入の他に、金山、銀山からの鉱業収入、そして貿易収入であった。しかし17世紀後半になると鉱山の金銀産出量は激減し、貿易も厳しい制限が加えられるようになったためやはり収入が激減し、勢い幕府財政はそのほとんどを天領からの年貢収入で賄わざるを得なくなった。 また支出の面から見ても、明暦の大火、そして5代将軍徳川綱吉による盛んな神社仏閣の建立、そして貨幣経済の発展による物価上昇によって、支出は膨らむ一方となり、元禄年間に入り幕府財政は赤字に転落した。幕府はまず貨幣の改鋳で収入を得るなどの対応策を立てるが、徳川吉宗による享保の改革によって、新田開発による耕地面積の拡大、そして年貢徴収率を高める年貢増徴策を押し進めることになった。幕府で年貢増徴策を強力に進めたのが老中の松平乗邑と勘定奉行の神尾春央であり、農村支配に通暁した「地方巧者」と呼ばれた人材を登用し、その結果、延享元年(1744年)には年貢収公量が180万石と江戸幕府最高の数値を記録した。 幕府の天領で進められた厳しい年貢の取立ては、やはり財政難に悩む諸藩にも広まっていったが、年貢増徴は必然的に農民の激しい反発を招いた。享保期には一揆が頻発するようになり、更に一揆そのものの形態も、宝暦、天明期には年貢増徴策に対抗するために藩全体が蜂起する、全藩一揆と呼ばれる広範囲に影響が及ぶ大規模な一揆が頻発するようになった。郡上一揆はこうした全藩一揆の1つであった。 そのような中、幕府は寛延3年(1750年)には幕領、大名領の農民の強訴、逃散を禁じる法令を出し、その後も厳しく一揆を取り締まる法令を次々と出して一揆の封じ込めに腐心したが、延享元年(1744年)以降、年貢収公量はじりじりと下がり始めた。また、米の値段が他の物価に比べて安い状態が続いたため、年貢米に依存する幕府や諸藩、そして武士の実収入も伸び悩み、そのような点からも年貢を厳しく取り立てることによって幕府財政健全化を図る政策に限界が見えてきた。郡上一揆が発生した宝暦期、幕府では享保の改革の方針を守る年貢増徴派に対し、商業資本などからの間接税収入に活路を見出そうとする派が現れ始め、路線対立が表面化していた。
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