ごう‐そ〔ガウ‐〕【強訴/×嗷訴】
強訴
ごうそ 【強訴・訴】
強訴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/28 23:11 UTC 版)
強訴(ごうそ)とは強硬な態度で相手に訴えかける行動を指す。「嗷訴」とも。
- ^ 『大辞泉』強訴
- ^ 下向井龍彦 『日本の歴史07 武士の成長と院政』〈講談社学術文庫〉、242-243頁。ISBN 978-4062919074。下向井はこの僧兵から、ヘルメットにタオルの覆面姿で、「異議なし」「ナンセンス」と声を張り上げる全学連の姿を連想する、と記している。
- ^ 『新・平家物語』 一巻吉川英治、ゴマブックス, 2013
- ^ 小山雅之「中世の寺社における閉門」『常民文化』第11号、成城大学、1988年3月、 61-77頁。
- ^ 礪波美和子「龍門文庫蔵『春日社家記録』「神木御入洛并御遷座事」をめぐって」『奈良女子大学日本アジア言語文化学会』第40号、2013年3月。
- ^ 稲葉伸道「鎌倉中・後期における王朝の神社政策」 『日本中世の王朝・幕府と寺社』吉川弘文館、2019年、120-125頁。
強訴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 16:44 UTC 版)
庄屋中心の惣代寄合メンバーによる交渉解決が行き詰った段階で、郡上郡中の各村農民に動員がかけられた。宝暦4年8月10日(1754年9月26日)郡上郡中そして郡上藩の越前領内からも集結した大勢の農民たちは、藩側に検見法への年貢徴収法改正断念を願う願書とともに、金森頼錦が藩主となって以降の各種の税や御用金、使役の負担増を指摘し、負担免除を願った十六か条の願書を差し出すという強訴に及んだ。この強訴には一般農民たち以外に、郡上藩が進めていた絹や茶、紙などといった商品作物に対する課税強化や、牛馬などに対する通行税取り立てに苦しむ豪農層、商人層の協力があり、郡上領内でも比較的豊かである郡上川沿いの藩南部、下川筋が主導していた。なお、この宝暦4年8月10日の強訴時点で、農民層の中に藩の施策に対して従順である農民が現れており、やがて藩に従順な農民たちのことを寝者、一方、藩に対抗していく農民らを立者と呼ぶようになる。 強訴に対して藩側はまず代官猪子庄九郎、別府弥格が対応を行った。両代官は大勢の農民らの剣幕に恐れをなし、続いて家老である渡辺外記、粥川仁兵衛らが農民たちへの対応に当たった。農民の怒号が響き渡る中、両家老は願書を受け入れ検見法への年貢徴収法改正を断念する旨記した免許状を渡し、十六か条の願書についても了承する旨の免許状を手渡した。しかし免許状には渡辺外記、粥川仁兵衛両家老の署名印形はあったが、当時蟄居中であった筆頭家老の金森左近の署名印形がないことに農民たちが騒ぎ出したため、金森左近の署名捺印を経て、農民代表の小野村半十郎、剣村庄屋に免許状が手渡され、要求が受け入れられたことを確認した農民らは各村へと引き上げていった。なお郡上藩に召し抱えられた後、藩領の巡検を行って年貢取立て方法の改正を進めていた黒崎佐一右衛門は、宝暦4年8月10日の強訴騒ぎの中、郡上藩領から逃亡した。 農民たちの強訴が当初比較的すんなりと受け入れられたのは、郡上藩内での路線対立が背景にあったものと考えられている。郡上藩内には年貢徴収法の改正によって農民たちから厳しく年貢を取り立て、藩の収入増加を図る方針に反発する勢力があり、筆頭家老の金森左近はその勢力の代表格であった。藩内の意見対立はその後も尾を引き、年貢増徴反対派の金森左近らは罷免されていくことになる。
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