強訴後の藩と農民
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宝暦4年9月9日(1754年10月24日)、郡上郡内の庄屋たちは南宮神社に参拝し、宝暦4年8月2日に作成した傘連判状と三家老の署名印形がされた免許状を重要文書として1年ごとに各村巡回で庄屋が預かることを決定した。 一方藩側は、農民らの強訴が行われた翌日の宝暦4年8月11日(1754年9月27日)、事態を伝える飛脚が郡上八幡から江戸へ向かい、江戸在府中の藩主に国元の事態を伝えた。続いて宝暦4年9月10日(1755年10月25日)には家老の渡辺外記、粥川仁兵衛らが江戸へ向かい、藩主金森頼錦に事態の報告を行った。宝暦4年11月26日(1755年1月8日)には郡上藩国元の役人の人事異動があり、年貢増徴派の役人が登用された。しかし宝暦4年12月8日(1755年1月20日)には、郡上郡中の村方三役が呼び出され、8月10日の強訴は不届きではあるが、農民らの訴えを聞き届ける旨の藩主の意向が示された。
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