越訴
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越訴(おっそ)とは、再審などを求めて正規の法手続を踏まずに行う訴え。合法・非合法は問わない。
越訴
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宝暦4年8月27日(1754年10月13日)、石徹白では神主に次ぐ神職である神頭職の杉本左近、社人総代の上村重郎兵衛、桜井吉兵衛の3名は、江戸で幕府寺社奉行の本多忠央に訴状を提出した。訴状の内容は、まず白山中居神社の造営林の伐採問題と上村治郎兵衛の追放問題を取り上げ、神主の石徹白豊前は突然吉田家の門弟を名乗り、吉田家の権威を笠に着て石徹白を自らの思い通りにしようとしていると豊前の無法ぶりについて指弾し、更に石徹白の神主職は世襲ではなく、神職の中から選ばれて任命されるものであることを指摘したものであった。 杉本左近らが幕府寺社奉行に提出した訴状は一応受理された。しかし郡上藩主金森頼錦の実弟である本多兵庫頭の養父は幕府寺社奉行の本多忠央で、金森家と本多家とは縁戚でありお互い親しい関係にあった。石徹白の社人らから訴状が提出された話はさっそく本多家から金森家へと伝わり、両家間の話合いによって訴状は金森家に渡され、吟味自体も金森家側が行うこととなった。訴状を提出した杉本左近らはこれまで郡上藩が訴えを全く聞き届けてもらえなかった経緯を説明し、金森家ではなく寺社奉行の吟味を受けたいと主張したが聞き届けられなかった。 江戸の金森家に出頭した杉本左近ら3名を尋問したのは、金森家家老の伊藤弥市であった。伊藤は型通りの取調べを行った後、吟味を改めて郡上八幡で受けるようになだめすかし、足軽2名の護衛をつけて杉本らを郡上八幡へ送り返した。しかし、宝暦4年9月27日(1754年11月11日)、郡上八幡に到着した杉本ら3名は、幕府の寺社奉行に越訴を行ったのは不届きとして、吟味が行われることなく手錠をかけられた上に宿預けを言い渡され、更に5名の監視がつけられるという厳重な監禁状態に置かれることになった。その上、3名のうち上村重郎兵衛、桜井吉兵衛の2名は宝暦4年(1754年)12月末、石徹白豊前のもとに預けられて豊前による激しい糾明を受けることになった。上村重郎兵衛、桜井吉兵衛の2名は「命のある限り豊前には決して従わない」と激しく抵抗し、結局宝暦5年(1755年)2月末、上村重郎兵衛、桜井吉兵衛の2名は郡上八幡に戻された。そして宝暦5年5月3日(1755年6月12日)には杉本左近、上村重郎兵衛、桜井吉兵衛の3名は入牢が言い渡された。
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