斯波義淳
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斯波 義淳(しば よしあつ)は、室町時代中期の武将・守護大名。室町幕府9代、13代管領。越前・尾張・遠江守護。斯波氏(武衛家)7代当主。管領斯波義重の嫡男で、室町幕府前期の有力者斯波義将の孫に当たる。
注釈
- ^ 『教言卿記』応永16年6月7日条に「前管領(義将)還補」という記事が、『執事補任次第』には同年8月10日に義淳の管領就任が記載されていたため、6月7日から8月10日までは祖父の義将が4度目の管領に就き、その後管領職を孫に譲ったと解されてきた。しかし、百瀬今朝雄はこれを実際に任命されたのは義淳であったがまだ判始も済ませていないために職務が行えず、祖父の義将が職務を代行することをなったのを山科教言が「義将の管領復帰」として捉えたのではないか、としている。また、生田本『鎌倉大日記』には義淳の管領就任を「六五(=6月5日)」と書かれており、実際の管領就任は6月5日であった可能性が高いとする[6]。また、百瀬は自身が以前作成した『国史大辞典』第3巻(吉川弘文館)の「管領」項目にある「室町幕府管領(執事)一覧」も修正する必要があると述べている[7]。
- ^ ただし、『執事補任次第』には「依為幼少、祖父法花寺代孫載判形」と記されており、花押をしたのを祖父の義将であったとする[6]
出典
- ^ 『清須合戦記』
- ^ 『尊卑分脈』
- ^ 祖父義将、父義重、子義豊も同様に公家の儀式によって元服した(『斯波家譜』)。
- ^ 尚この日は義淳と同時に日野義資も元服した(『教言卿記』)。
- ^ 武衛家の代々の後継者は将軍の上の字である「義」字を偏諱として受ける慣例があった(『満済准后日記』)。
- ^ a b 百瀬今朝雄「〈歳十五已前之輩〉と花押」『弘安書札礼の研究』(東京大学出版会、1994年)P271-273.(初出:『早稲田大学蔵資料影印叢書』10号、1986年)。
- ^ 「偽文書について」『弘安書札礼の研究』(東京大学出版会、2000年)P277-278.(初出:『立正大学文学部論叢』100号、1998年)
- ^ 『大日本史料』第七編之十二。
- ^ 義淳は執権の甲斐氏に、甲斐氏はさらにその配下の狩野氏に朝鮮使節の接待役を勤めさせたという(『老松堂日本行録』)。
- ^ 『看聞日記』応永28年4月8日条によると仮屋を二棟用意し、風流な破籠(弁当箱)を用いた善美を尽くしたもてなしであったという。
- ^ 『看聞日記』応永32年2月28日条によると、この年の元旦に武衛陣の梁上に降下した「将軍」銘の兜を、義淳はひたすら秘し続けたといわれる。その後、義淳の重臣甲斐氏のもとに石清水八幡宮に参籠中の僧侶が霊夢によって太刀を持参したという。これはかつて義淳の曽祖父高経が奉納した太刀であったとされる。
- ^ 計会(経済的問題か)により、義淳が離京を計ったためであるという(『満済准后日記』正長元年8月6日条)。
- ^ 但し、義淳は管領就任の条件として「永享2年正月12日以降に上表(辞意)する際は満済が将軍へ披露する」としており、当初から管領職を全うする意思は少なかったようである(『満済准后日記』正長2年8月24日条)。
- ^ 『斯波家譜』では義淳時代の武衛陣(武衛邸)の様子が記述されている。それによると、寝殿造の屋敷には「唐鳥」が描かれ、障子には紫縁を捺し、南庭には蹴鞠場、塀中門(表屋と母屋の間にある塀に設けた中門)の内の玄関には丸付きの御簾垣を設えた造であったという。
- ^ 「室町期の斯波氏について」
- ^ 「管領斯波義淳の就任・上表をめぐって」「管領斯波義淳の政治活動」
- ^ 「管領斯波義淳の政治活動」
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