甲斐氏とは? わかりやすく解説

甲斐氏

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甲斐氏(かいし)は、日本氏族の一つ。甲斐甲斐国造族と、肥後藤原北家菊池氏流、越前守護代甲斐氏の三流ほかが確認される。


  1. ^
    「武衛様御分国越前国守護代、甲斐左衛門大輔 — 『奥州余目旧記』、[4]
  1. ^ 『三枝部氏初期綱要』
  2. ^ a b c d 太田 1934, p. 1691.
  3. ^ a b c 太田 1934, p. 1692.
  4. ^ 太田 1934, p. 1690.


「甲斐氏」の続きの解説一覧

甲斐氏(甲斐国造)

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「甲斐氏」の記事における「甲斐氏(甲斐国造)」の解説

狭穂彦命四世孫の塩海足尼を祖とする甲斐国造氏姓で、塩海足尼曾孫にあたる伊志良君が甲斐君を賜姓されたことに始まる。後裔高野庚午年籍甲斐造に改姓されている。以下に系図掲げるが、系線に乱れがあり、高野の本来の位置は野養君の子稲目の子であったと見られる

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甲斐氏(菊池氏流)

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「甲斐氏」の記事における「甲斐氏(菊池氏流)」の解説

肥後菊池氏庶家のうち日向高千穂土着した国人衆で、戦国時代阿蘇氏重臣となった家系である。 甲斐氏は、鎌倉時代元寇活躍した菊池武房第三菊池武本(別名、菊池武村)に始まる。 武本家督を甥の菊池時隆争い鎌倉訴訟持ち込んだ敗訴し憤激した武本は時隆と刺し違えて死んだと言われる(『甲斐系図』)。武本の子武村(またはその子重村)は、後難恐れて甲斐都留郡逃れて住んだ(『甲斐系図』)。これが後に甲斐氏を称した由来である。 重村南北朝初期から足利尊氏に従って肥後守護にするとの口約束受けた喜んだ重村は、家号を「甲斐」と改め延元3年1338年)、九州下向し、大友氏援軍とともに肥後へ進出した。しかし、南朝方の菊池武重合志郡鞍嶽の麓で合戦して敗れ、その夢はかなえることができなかった。その後豊後走り次いで日向縣(あがた)に土持氏頼って逃れてついには高千穂鞍岡(現、五ヶ瀬町内)に土着して同地国人となった。 この重村四世子孫甲斐親宣である。阿蘇氏内訌により、前阿蘇大宮司阿蘇惟豊が甲斐氏の先祖同じよう郷里追われ鞍岡隠れ住んだ境遇に、甲斐親宣はいたく同情して永正14年1517年)、阿蘇惟豊与力して矢部浜の館に復させ、それにより地位確立敵対勢力破り、惟豊を阿蘇郡戻し以後、その重臣として阿蘇氏補佐することになった天文10年1541年)、その子甲斐親直(宗運)は、島津氏内通して阿蘇大宮司背いた御船房行を益城郡御船城攻めて御船城主となり、筆頭家老として軍事外交両面において阿蘇氏支えた以後、甲斐氏は肥後日向豊後薩摩各地拡大した。とくに甲斐親直は、阿蘇氏家臣連署証文連署する7名の末尾署判与えており、佐渡重幸とともに阿蘇惟将から重用され人物であることが分かる(『小国満願寺宛文書』永禄三年十月十一日)。 現在、甲斐姓は、江戸時代延岡市居城構えた旧・内藤藩領内の西臼杵郡高千穂町五ヶ瀬町中心とした宮崎県北部から、熊本県阿蘇外輪山一帯大分県南部九重連山付近にかけて、非常に多く分布している。 なお、家紋阿蘇氏と同じ「違い鷹の羽」である。親宣は「三つ巴」を用いたこともあったが、これは高千穂神社神官三田井氏麾下にあった時、その家紋である「三つ巴」を用いたもので、阿蘇氏重臣となってからは「違い鷹の羽」を用いたと言われている。

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甲斐氏(佐野氏)

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「甲斐氏」の記事における「甲斐氏(佐野氏)」の解説

斯波氏の下で越前遠江などの守護代務めた一族佐野氏一族とされ、出自下野であると思われるが、判然とはしていない佐野氏は、藤原秀郷後裔足利七郎有綱の子基綱が下野安蘇郡佐野庄に住んで佐野太郎称したのに始まるという。寿永3年1183年)、志田義広の乱で嫡流足利氏義広与して没落したのに対し、基綱は小山氏と共に源頼朝方につき御家人となった。基綱の名は『吾妻鏡』にも佐野太郎基綱とみえている。承久3年1222年)の承久の乱で功をあげ、戦後淡路国地頭職任じられた。しかし、宝治元年1247年)の宝治合戦三浦氏味方したため没落わずかに本拠地佐野荘地頭として存続する至ったようである。 この佐野氏家紋九州甲斐氏(菊池氏)が一時使用していた、九州高千穂神社神官家(三田井氏)の家紋左三つ巴同一であること、佐野氏出身地安蘇郡佐野庄」が古くは「阿蘇郡佐野庄」と九州阿蘇と同じ漢字あてられており、朝廷の牧があった地域なことから、騎馬技術者であった阿蘇の甲斐氏(菊池氏)及び姻戚関係結んでいた三田井氏が、北条氏雇われ騎馬技術者として甲斐から北関東にかけて移住してゆき、承久の乱以後に、北陸分派した可能性ありえる。 甲斐氏は室町幕府成立し斯波氏越前守となった頃にその執事として入京した。甲斐教光(のりみつ)が徐々に頭角現し、娘を斯波義重(のち義教)に差し出して斯波義郷を生ませ、その立場強固なものとし、教光と子の甲斐将教(ゆきのり)は義教改名した義重から偏諱(「教」の字)を与えられた。また、将教(法名:祐徳(ゆうとく))は越前尾張遠江守護代となり、その後甲斐氏が越前遠江の両守護代職を世襲するうになる尾張守護代は織田氏世襲するうになる)。将教の子将久(ゆきひさ、法名:常治)の代となって最盛期となり、陪臣ありながら将軍の出行を得られるほどにその家格高かった。 しかし、長禄合戦直後長禄3年1459年8月12日に常治が亡くなると、台頭著し朝倉氏に特に越前圧迫されるうになる応仁の乱甲斐敏光(将久の子)は西軍与するが、同じく西軍にあった朝倉孝景東軍寝返りにより窮地に立たされる最終的に甲斐氏は越前での基盤失った以降遠江本拠地移し遠江守護代として活躍する。 しかし越前朝倉氏尾張織田氏のように戦国大名発展することは無かった。これは隣国駿河今川氏激し遠江侵攻よる。その後歴史表舞台から退場していく。

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