菊池武重とは? わかりやすく解説

きくち‐たけしげ【菊池武重】

読み方:きくちたけしげ

[?〜1341]南北朝時代武将肥後の人。武時の長男肥後守足利尊氏(あしかがたかうじ)が建武政府反したとき、新田義貞に従って箱根奮戦。のち、九州帰り南朝軍の中心として戦った


菊池武重

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/18 14:45 UTC 版)

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菊池武重
菊池武重像
時代 鎌倉時代末期 - 南北朝時代
生誕 徳治2年(1307年)?
死没 延元3年/暦応元年(1338年)?
別名 次郎(通称)
戒名 歓喜院寂山言盆真空寂阿大居士
墓所 熊本県菊池市隈府の正観寺歓喜院
官位 従五位下、肥後守、贈従三位(明治35年)
主君 後醍醐天皇
氏族 菊池氏
父母 父:菊池武時、母:赤星有隆の娘
兄弟 武重、頼隆、隆舜、武茂、武澄武吉、武豊、武敏武光、武隆、武士、武尚、武義、乙阿迦丸、了心素覚
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菊池 武重(きくち たけしげ)は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将菊池氏の第13代当主。菊池武時の嫡男。

生涯

1333年、父武時と共に挙兵し、鎌倉幕府鎮西探題北条英時を攻めたが、逆に英時や少弐貞経大友貞宗らの反撃を受けて父は討死し、武重は命からがら本国に逃げ帰った。後醍醐天皇による建武の新政が始まると、亡父の功績を賞されて肥後一国を与えられた。

1335年足利尊氏が後醍醐天皇に反逆して鎌倉より軍を率いて侵攻すると、弟の武吉と共に新田義貞の軍に加わって足利軍と戦ったが、敗れて京都に逃げ帰った。その後、九州に落ちた尊氏が再挙して攻め上ってくると、兵庫など各地で足利軍と戦ったが、敗れて足利軍に捕えられた。しかし一命は助けられて、肥後に送り返されている。

1337年2月、九州における南朝勢力を結集して北朝勢力と戦ったが、1338年に死去。後を弟の武士が継いだ。

没年には異説も多く、1341年、もしくは1342年説もある。さらに42歳(正慶2年3月13日博多で討死、という説を採ると1292年 - 1333年となる。ただ、この没年(正慶2年)は父武時のものかもしれない)とも家譜にはある。出生年も定かではない。

一族の結束の為、菊池家憲「寄合衆内談の事」を作り、武重の血判が押されてある。血判文書としては最古のもので、菊池千本槍と共に現在も建武中興十五社のうちの一社である菊池神社(現在の熊本県菊池市)に保存され、同神社では武時、武光と共に主祭神として祀られている[1]

贈位

没後570年近く経った1902年(明治35年)11月12日に、明治天皇より贈従三位に叙され、同日に父の菊池武時従一位と、弟の菊池武光も贈従三位に叙された[2]

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 菊池神社”. 菊池市. 2021年3月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月18日閲覧。
  2. ^ 『官報』第5810号、「叙任及辞令」1902年11月14日。



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