大河平隆利とは? わかりやすく解説

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大河平隆利

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/10 03:13 UTC 版)

 
大河平隆利
時代 戦国時代
生誕 天文5年(1536年
死没 永禄6年1月28日1563年2月20日
別名 通称:仲太左衛門
戒名 玉翁明珠居士
主君 北原兼守→島津義弘
氏族 大河平氏
父母 父:大河平隆充
兄弟 隆利、隆豊、
ナミ(皆越六郎左衛門室)、隆次

大河平 隆利(おこびら たかとし)は、戦国時代武士北原氏の家臣。

略歴

大河平氏は、元は菊池氏庶流八代氏で、肥後国八代に在ったが、大友氏による逼迫に耐えかね日向国の北原氏を頼り従属、隆利の祖父で大河平氏の祖となる大河平隆屋が真幸院の大河平[1]に移り住んだのが始まりである。永禄5年(1562年)にその隆屋が死去、父・隆充も永禄2年(1559年)に既に病死していたことから隆利が後を継いだ。

この頃、既に主家であった北原氏は、日向山東の伊東義祐に家を乗っ取られており、隆利は薩摩国島津義弘に誼を通じるようになった。これに対し伊東義祐は、家臣・伊東杢右衛門を大河平氏の住まう大河平城に遣わし、隆利を調略しようとする。隆利がこれを断ると、杢右衛門はその晩に、潜ませていた450余名を率いて150名足らずが守る大河平城を夜襲する。大河平城は堅城ではないものの隆利はこれを防ぎきり、朝方に城を開いて打って出ると10余名を失ったものの、伊東勢50余名を討ち取りこれを退散せしめた。隆利はこの功により、島津義弘より鍋・灰塚・榎田の地、計2000石を賜り、更に大河平城の西の要害の地に新城を作るよう申し渡された。それが後の大河平氏の本城となる今城である。

しかし、翌永禄6年(1563年)、隆利は病により急死した。享年28。隆利には子がなく、また次弟・隆豊も既に戦死しており、末弟・隆次が後を継いだ。

脚注

  1. ^ 現:宮崎県えびの市大河平。

出典

  • 『えびの市史 上巻』(えびの市郷土史編さん委員会編)
  • 本藩人物誌』 鹿児島県史料集(13)(鹿児島県史料刊行委員会)



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