武衛家の混乱
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この頃の斯波氏は斯波義淳・義豊父子が相次いで没し、さらに義郷、義健と短命の当主が続き、自然に斯波氏の長老として持種の存在感が大きくなり、武衛家家中の指揮を執る立場となっていった。 この持種と対立したのが斯波氏代々の執事で越前守護代ある甲斐氏の甲斐将久(常治)であった。常治は持種と共に武衛家当主の後見人となり、幕府の命令で大和永享の乱と永享の乱で大和・関東に出陣していたが、筆頭家臣として武衛家一族や他の家臣からみれば傍若無人な振る舞いが目立つ存在であり、両者が対立するのは必然であったといえる。常治が越前で斯波氏領国支配を推し進めていた焦りもあり、甲斐氏に反感を持つ越前国人は持種につき、後の合戦の対立構図が出来上がっていく。 文安3年(1446年)9月、持種は加賀へ出兵。守護職を巡って対立している富樫氏の当事者の1人富樫泰高に肩入れした。泰高の甥成春を追放したが、斯波方にも多くの死傷者を出している(加賀両流文安騒動)。この時から持種と常治の対立が発生。加賀復帰を狙った持種に将久が反対した事が原因と見られている。 その後、斯波義健が僅か18歳で夭逝すると、武衛家当主に持種の長男である義敏が据えられた。このことで持種・義敏父子と常治の対立は激化し、長禄2年(1458年)、ついに長禄合戦をもって両者は激突する。この合戦で持種・義敏父子は敗北し失脚。孫で義敏の子息松王丸が当主となるも、間もなく松王丸も家督を廃され、代わって渋川義鏡の子義廉が武衛家当主となることとなった。ところが、その後、伊勢貞親の働きかけで義敏が赦免されて、寛正6年(1465年)12月には義敏が将軍足利義政と対面して正式に赦免された際には持種も同席している(『大乗院寺社雑事記』には29日、『蔭涼軒日録』には30日のこととする)。翌文正元年(1466年)には義敏の斯波氏家督と守護復帰が決定されて8月25日には持種も義敏に従って義政に拝謁しているが(『蔭涼軒日録』)、直後に発生した文正の政変によって義敏は再び追放されて義廉が復帰する。一連の騒動を武衛騒動という。
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