武衛家の混乱とは? わかりやすく解説

武衛家の混乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/23 14:23 UTC 版)

斯波持種」の記事における「武衛家の混乱」の解説

この頃斯波氏斯波義淳・義豊父子相次いで没し、さらに義郷、義健と短命当主続き自然に斯波氏長老として持種の存在感大きくなり、武衛家家中の指揮執る立場となっていった。 この持種と対立したのが斯波氏代々執事越前守護代ある甲斐氏甲斐将久(常治)であった。常治は持種と共に武衛当主後見人となり、幕府命令大和永享の乱永享の乱大和関東出陣していたが、筆頭家臣として武衛一族や他の家臣からみれば傍若無人な振る舞いが目立つ存在であり、両者対立するのは必然であったといえる。常治が越前斯波氏領国支配推し進めていた焦りもあり、甲斐氏反感を持つ越前国人は持種につき、後の合戦対立構図出来上がっていく。 文安3年1446年9月、持種は加賀出兵守護職巡って対立している富樫氏当事者1人富樫泰高肩入れした。泰高の甥成春を追放したが、斯波方に多く死傷者出している(加賀両流文安騒動)。この時から持種と常治の対立発生加賀復帰狙った持種に将久が反対した事が原因見られている。 その後斯波義健が僅か18歳夭逝すると、武衛当主に持種の長男である義敏が据えられた。このことで持種・義敏父子と常治の対立激化し長禄2年1458年)、ついに長禄合戦をもって両者激突する。この合戦で持種・義敏父子敗北し失脚。孫で義敏の子松王丸当主となるも、間もなく松王丸家督廃され、代わって渋川義鏡の子義廉が武衛当主となることとなった。ところが、その後伊勢貞親働きかけで義敏が赦免されて、寛正6年1465年12月には義敏が将軍足利義政対面し正式に赦免された際には持種も同席している(『大乗院寺社雑事記』には29日、『蔭涼軒日録』には30日こととする)。翌文正元年1466年)には義敏の斯波氏家督守護復帰決定され8月25日には持種も義敏に従って義政拝謁しているが(『蔭涼軒日録』)、直後発生した文正の政変によって義敏は再び追放されて義廉が復帰する一連の騒動武衛騒動という。

※この「武衛家の混乱」の解説は、「斯波持種」の解説の一部です。
「武衛家の混乱」を含む「斯波持種」の記事については、「斯波持種」の概要を参照ください。

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