武衛騒動
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武衛騒動(ぶえいそうどう)は、管領家の一つ斯波氏(武衛家)のお家騒動に関連して、寛正6年(1465年)に発生した室町幕府の内紛である。
経緯
関東において、享徳3年(1454年)に鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を殺害すると、8代将軍足利義政は成氏討伐を命じたが、成氏は鎌倉府から古河府に移って激しく抵抗した(古河公方・享徳の乱)。このため、長禄元年(1457年)に義政の庶兄である足利政知を関東に派遣しようとするが伊豆国から先には進めず、同地で堀越公方を称した。
幕府は堀越公方には直轄軍は持たせず、斯波義敏を中心とした幕府軍を編成して関東に派遣する計画を立てた。斯波氏の領国が関東に近い遠江国にあり、父の斯波持種も成氏の父・足利持氏が起こした永享の乱鎮圧で活躍していたこと、奥羽に大崎氏などの多くの分家勢力がおり西と北から成氏を挟撃することが期待できたことが挙げられる。ところが、斯波義敏は越前国において執事の甲斐常治と対立していることを理由に出陣を拒否、やがて甲斐と合戦を始めた(長禄合戦)。これに激怒した義政は長禄3年(1459年)8月に義敏を廃して、息子の松王丸を家督とした。この直前に甲斐常治は病死しているが、彼の娘が義政の信任が厚い将軍家政所執事の伊勢貞親の妻であったために甲斐氏の責任が問われることはなかった。この間にも古河公方側の優勢のまま戦局が推移し、寛正2年(1461年)10月には堀越公方側へのてこ入れの一環として、松王丸をも廃して義敏の子しかしその後、政知の執事渋川義鏡の子義廉が新たに家督に立てて、堀越公方が斯波軍を動かせる態勢を作ろうとした。ところが、肝心な渋川義鏡が寛正4年(1463年)頃に扇谷上杉家と対立して失脚してしまったために、残されたのは義敏と義廉の家督争いだけとなった[1]。
こうした中で、伊勢貞親は斯波義敏を復権させて遠征軍の再編を目論む。これに対して、義廉は勿論のこと、将軍家政所執事の身分でありながら管領家家督に口をはさむ貞親の横暴に激怒した有力者細川勝元と山名宗全は協力して文正元年(1466年)に貞親や彼と結ぶ季瓊真蘂・赤松政則らを幕府から追放した(文正の政変)。背景に、次期将軍を予定されていた足利義視の排斥問題も絡んでいると伝えられる(義視は義廉に同情的で、貞親はこれを口実に将軍後継者の地位から排除しようとしたとされる)。また、将軍義政もその時々の自己の方針(特に関東問題)に適任と思われる人物を斯波氏の家督に据えようとしたと考えられ、政情の変化に応じて義政の方針も柔軟に変化させていったが、そこに事態の複雑化や伊勢貞親の影響力の拡大を見いだす見方もある[2]。
後に勝元と宗全が対立し応仁の乱が勃発すると、義敏父子と政則は将軍義政を戴く東軍に属し、それぞれ武衛家家督・赤松氏家督及び守護職を奪還し、貞親と真蘂も赦免されて帰京するなど、それぞれ復権した。ただし貞親と真蘂に活躍の場は与えられず、真蘂は文明元年(1469年)に、貞親は文明5年(1473年)に世を去る。
脚注
注釈
出典
- ^ 木下昌規「総論 足利義政の権力と生涯」『足利義政』戎光祥出版〈シリーズ・室町幕府の研究 第5巻〉、2024年5月、31-33頁。ISBN 978-4-86403-505-7。
- ^ 木下昌規「総論 足利義政の権力と生涯」『足利義政』戎光祥出版〈シリーズ・室町幕府の研究 第5巻〉、2024年5月、39-41頁。ISBN 978-4-86403-505-7。
武衛騒動
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寛正2年(1461年)9月、幕府の関東政策により、松王丸に替わって堀越公方執事渋川義鏡の子である斯波義廉が武衛家を継承した(興福寺尋尊の『大乗院寺社雑事記』寛正2年8月2日条は、朝倉孝景・甲斐敏光がこれに関与していたとする。ただし、孝景・敏光は遠江と関東に出陣していたため、この説は疑問)。そのため、義敏は反義廉となって将軍側近などに対し、復帰工作を行うようになる。 渋川義鏡が関東経略に失敗し、将軍義政の不興を買ったことで、義敏の立場も改善に向かっていく。 寛正4年(1463年)11月、将軍義政は側近の伊勢貞親、季瓊真蘂らの進言を容れ、生母日野重子の逝去に伴い義敏を赦免した。この時は京都への復帰は認められず、ようやく寛正6年(1465年)10月22日に至って上洛を許す御内書が出たのを受けて義敏は周防を立ち、12月29日に上洛、翌30日に父大野持種とともに将軍に拝謁した(『蔭涼軒日録』、『大乗院寺社雑事記』は対面を29日のこととする)。これを知った義廉が将軍に迫り、分国は引き続き義廉が支配するようにとの幕府奉行人奉書が同30日付で出された。興福寺の尋尊は義政の意図を図りかねて困惑している。 文正元年(1466年)7月23日、幕府は義敏を武衛家家督に復し、8月25日に尾張・遠江・越前3ヶ国の守護に任じた。家督を奪われた義廉は岳父山名宗全を頼り、一色義直・土岐成頼らも義廉に味方する。さらに、同年に伊勢貞親の助言で大内教弘の子政弘が赦免されると、これに反対する細川勝元も貞親に敵対し、9月6日に貞親・真蘂・赤松政則らの失脚(文正の政変)に発展した。14日に義敏の守護職と家督は剥奪され、再度義廉が任命された。
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