応仁の乱と織田氏の分裂
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織田氏の主君である斯波氏は7代当主の斯波義淳の没後、8代義郷・9代義健と短命の当主が続き、家中の実権は執権の甲斐氏をはじめ織田氏・朝倉氏などの重臣層と、斯波一族の大野家などが握っていた。やがて重臣層と一族衆の対立が深刻化し、寛正6年(1465年)には重臣層が推す渋川義鏡の子義廉と大野家出身の義敏が家督を巡って対立する武衛騒動が起こることとなった。 この争いが将軍家・畠山氏の家督相続と連動したため、応仁元年(1467年)の応仁の乱が勃発、義廉と甲斐氏や織田氏などの主だった重臣層は西軍となり、義敏と斯波一族、そして一部の重臣やその庶流は東軍となり争った。この時、義廉は京都で西軍の主力として戦い、義敏は守護職回復を狙って越前で戦っている。また義敏の子義良(義寛)は尾張に居たと思われ、文明7年(1475年)遠江国は東軍である駿河守護今川氏の侵攻を受け、同じく東軍であった遠江守護代甲斐敏光とともにこれを防ぎ、今川義忠を敗死に追い込んでいる。しかし、越前国では西軍から東軍に寝返った朝倉孝景が越前守護を称して西軍の勢力を越前から一掃していき、さらに文明13年(1481年)頃までには朝倉氏は同軍であり主君でもある義敏・義良親子の勢力も駆逐してしまった。この間、義廉も将軍足利義政の不興を買って管領職・三ヶ国守護職・斯波氏家督の全てを剥奪され、都落ちを余儀なくされている。 尾張国では、守護代の織田敏広(伊勢守家)が西軍ということもあって西軍の優勢な地域であった。この頃、尾張の守護所が下津城(中島郡)から清洲城(春日井郡)に移されたという。このため都落ちを余儀なくされた義廉も尾張へ落ち延び、敏広とともに勢力の巻き返しを図ることとなった。しかし、応仁の乱が終結した翌年の文明10年(1478年)、東軍であった尾張又守護代・織田敏定(大和守家)が室町幕府第9代足利義尚から正式な尾張守護代と認められると、敏広と義廉は兇徒と断じられて討伐対象に指定されて清洲城を追われた(義廉は以後の記録には見えなくなる)。しかし、伊勢守家は、織田敏広の岳父であった美濃国の斎藤妙椿(旧西軍)の支援を得て盛り返し清洲城を包囲した。この時、織田敏定は右目に矢を受けたという。 翌文明11年(1479年)、再三の幕府の介入により、織田敏広と斎藤妙椿は清洲城の包囲を解き、尾張上四郡(丹羽郡、葉栗郡、中島郡、春日井郡)を伊勢守家、尾張下四郡(愛知郡、知多郡、海東郡、海西郡)を大和守家が治めることで和睦したとされる(しかし、実際には知多郡と海東郡は一色氏が分郡守護であった)。文明13年(1481年)3月に伊勢守家は大和守家と争って勝利した。織田敏広の後を継いだ寛広は斯波義寛(義良)に帰順した。文明15年(1483年)には京から尾張に下向した斯波義寛が清洲城に入城し、守護・斯波義寛、守護代・織田敏定の体制で尾張はひと時の安定期を迎えた。 守護・義寛のもとで安定化した尾張であったが、長享元年(1487年)に近江守護・六角高頼攻め(長享・延徳の乱)が起こると義寛は両織田氏を率いて将軍の元に参陣した。延徳3年(1491年)には、斯波氏の織田敏定、赤松氏の浦上則宗の両名は、第10代将軍足利義稙から戦功を評され剣が与えられている。また、その後の六角氏との簗瀬河原での合戦でも幕府の主力として織田敏定、浦上則宗、若狭武田氏の逸見弾正の名が見える。義寛は将軍家に越前侵攻の支援を望んでいたが、明応2年(1493年)の明応の政変により越前奪還の夢は完全に潰えることとなった。
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