下津城とは? わかりやすく解説

下津城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/02 04:34 UTC 版)

logo
下津城
愛知県
下津城址の碑
城郭構造 平城
天守構造 なし
築城主 室町時代中期
主な城主 斯波氏織田氏
廃城年 文明8年(1476年
遺構 土塁、石碑
指定文化財 なし
再建造物 なし
位置 北緯35度15分38秒 東経136度49分40秒 / 北緯35.26056度 東経136.82778度 / 35.26056; 136.82778 (下津城)座標: 北緯35度15分38秒 東経136度49分40秒 / 北緯35.26056度 東経136.82778度 / 35.26056; 136.82778 (下津城)
地図
下津城
テンプレートを表示

下津城(おりづじょう)は、尾張国中島郡下津(現愛知県稲沢市下津高戸町)にあった日本の城平城)。「下津城址」の碑がある。一部土塁も残る。

概要

築城者の評細は不明であるが、応永7年(1400年)頃、尾張守護に補任された斯波義重が、下津城に尾張国の守護所を置いたといわれる。また永享4年(1432年)に第6代将軍足利義教が富士遊覧の際に宿泊したといわれる。

応仁の乱が起こると、尾張国でも守護代織田氏斯波氏の家督争いに介入して、二家に分裂して抗争を始めた。この時期に守護代織田家の嫡流で元々守護代職を世襲していた「織田伊勢守家」当主の織田敏広が入城し、居城としたという。

文明8年(1476年)、敏広は守護代織田家の分家筋の「織田大和守家」当主の織田敏定と戦って敗れた。『和漢合符』によると、この際に下津城は焼失したという。その後、尾張守護所はその別郭であった清洲城へ移ることになった。また、下津城を追われた敏広は岩倉城を築いて居城としている。

交通

脚注

関連項目

外部リンク





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「下津城」の関連用語

下津城のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



下津城のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの下津城 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS