豊臣政権
豊臣政権期
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天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いにも参加し、戦後は父と共に越前府中城へ撤退する。父が羽柴秀吉に恭順し、秀吉と共に勝家の本拠・北ノ庄城を攻める折り、秀吉は利長の母のまつに「孫四郎は置いていく」と利長を残しておこうとしたが、まつはそれを断り、利長を従軍させた。利長はわずか2騎の供回りで北ノ庄城攻めに加わったと伝わる。 勝家の自刃後は秀吉に仕え、加賀国石川郡のうち、松任4万石を与えられた。 天正13年(1585年)、秀吉により佐々成政が支配していた越中国(富山県)が制圧されると、同国射水郡・砺波郡・婦負郡32万石を与えられた。父・利家の監督下にはあったものの、独立大名としての格式が認められた利長は父とは独立した家臣団を編成していた。 秀吉の配下として九州平定、小田原征伐などに従軍し、各地を転戦して功績を立てた。特に九州平定戦では蒲生氏郷と共に岩石城を落とす活躍をしている。 天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜された。 文禄4年(1595年)には越中の残る新川郡をも加増、重臣の青山吉次が上杉家の越中衆(土肥政繁・柿崎憲家)から天神山城や宮崎城を受け取る。 慶長3年(1598年)には利家より前田家家督と加賀の金沢領26万7,000石を譲られる。
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豊臣政権期
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天正10年(1582年)、吉見広頼の子として誕生。初名は広行と名乗った。 文禄元年(1592年)から始まる文禄の役で朝鮮に渡った兄・元頼が、帰国後の文禄3年(1594年)6月に津和野で病死したため世子となる。 慶長2年(1597年)からの慶長の役では下瀬頼直らと共に広行が朝鮮へ渡った。同年8月16日の黄石山城の戦いにおいて広行は従者と引き離されて単騎で敵中に包囲されてしまったが、頼直が救援に駆けつけて虎口を脱し、頼直の助太刀によって騎馬武者1騎を討ち取った。若年の広行が挙げたこの首級がその日の一番首となり、加藤清正にも大いに賞賛され面目を施すこととなった。
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豊臣政権期
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盛安の死後、子の九郎五郎が4歳だったため、弟の戸沢光盛が家督を継ぐ。奥州仕置の後、戸沢氏の支配地域は盛安の死と惣無事令の問題もあり、北浦郡4万5千石のみ安堵され、残りの地域に関しては太閤蔵入地の代官としての権限を与えられた。 光盛の家督相続の際、盛安の兄、戸沢盛重の謀反騒ぎが起きたとされるが、家中動揺することなく、光盛を盛りたてた。光盛は朝鮮出兵の途上、播磨国姫路城で病死。
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豊臣政権期
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輝元の代に入ると、織田信長による中国平定戦(中国攻め)に晒されるが、天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が不慮の死を遂げたことで一旦危機は救われた。だが、広大な織田領と隣接している事実は変わらず、織田政権の帰趨が毛利氏の今後に深く関わってくることになった。 天正11年4月20日(1583年6月10日)、安芸高田郡坂城(日下津城)で、吉川元春、小早川隆景及び筆頭重臣福原貞俊が会議を開き、隆景が羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と、元春が柴田勝家ら反秀吉派と接触を保つことでバランスを維持し、どちらが勝利しても次期織田政権との衝突を避ける方針が固められた(「大日本古文書 毛利家文書」)。この時から両川体制は政治的な意味合いを強めていくことになる。その結果、秀吉が勝利を収め、隆景・安国寺恵瓊が窓口となる形で毛利氏と豊臣政権の関係が強化されることとなった。 豊臣秀吉は四国平定の後、輝元と隆景の分離をはかるため、天正13年に毛利家臣として与えられていた6万3千石とは別に伊予一国を隆景にあたえ、九州の役の終わった九州国分では、隆景に伊予に替えて筑前・筑後及び肥前の一部をあたえた。また、天正20年4月11日(1592年5月22日)には朝鮮出兵に向かうために毛利氏の本拠であった広島城に入った秀吉は、元就の四男穂井田元清の子である毛利秀元を男子のいない輝元の養嗣子とする事について、直接輝元・秀元に対して「輝元に男子が生まれた場合には分家すること」を条件に承認した。一方、吉川氏では吉川元春、続く嫡男元長の死去によって元春の三男・広家が当主に就任した。広家は元々、吉川氏の庶流である宮庄氏を継ぐことになっていたが、この境遇に不満をもって石見小笠原氏の入嗣を図って輝元に阻止された経緯があった。輝元は広家に隠岐一国を与えて収拾したが、その広家が吉川氏を継いだ後も両者の間に微妙なわだかまりを残していた。 3年後の文禄4年(1595年)、輝元に実子である毛利秀就が誕生したため、慶長3年(1598年)の秀吉病死を直前に急遽、秀就の毛利氏後継と秀元の独立大名化が承認され、翌4年(1599年)に長門全域と安芸佐伯郡及び周防吉敷郡の計17万石をもって、小早川隆景の例にならって毛利家臣でありながら独立大名としての身分が認められることとなった。 慶長2年(1597年)に隆景が病死し、家督は毛利氏とは血縁関係のない秀吉の一族の小早川秀秋が継承し、この時点で「毛利両川」としての小早川氏は消滅した(小早川氏そのものも、5年後の秀秋の死により断絶)。このため、隆景が死去した際に隆景本来の所領である三原城は毛利家に返還されることになっていたが、豊臣政権の取次であった石田三成は秀元の独立大名化の方針を受けて彼に吉川広家の所領である伯耆・出雲・隠岐を与えて広家を宙に浮いていた小早川隆景の遺領に移す案を作成した。吉川氏の勢力を削減する意図をもっていた輝元は瀬戸内海の要所である三原を広家に与えることに難色を示して代替地を備中国にする意向を示し、秀元も長門を与えられることを希望し、所領を移される広家は元よりこの提案内容に反発し、三者三様の反対をしたにも関わらず、慶長4年1月に三成は広家の代替地の決定を先送りする形でこの案を押し切った。だが、直後に三成が失脚すると、徳川家康が決定の見直しを行い、同年6月になって秀元には前述の長門以下17万石を与えて広家の所領をそのままに、隆景の遺領は毛利家にそのまま返還されることになり、輝元・秀元・広家ともにこの案を受け入れた。しかし、この騒動は秀吉死後の毛利家に少なからぬ混乱をもたらして輝元・秀元・広家の足並みの乱れを露呈させただけでなく、広家の三成への反発と家康への接近を招いた。 こうした事情から、輝元は秀元に長門を与えるに際し「松寿(秀就)のために、隆景元春が吾(輝元)にしたように尽して欲しい」と伝えている(「毛利輝元国割書」(長府博物館所蔵))。これによって、小早川氏に代わって長府毛利家(旧穂井田氏)が吉川氏と共に新たな「両川」的な役割を担うことになった。一方、長くわだかまりがあった広家に対しても同様の協力を求めるようになり、広家も輝元に対して奉公を尽くす意思を表明する書状が送られている(『吉川家文書』1200・1201号)。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、石田三成の構想に従って輝元を総大将に押し立てて西軍につこうとする秀元・安国寺恵瓊に対して主だった重臣が反発を抱き、7月15日に福原広俊・宍戸元続・益田元祥・熊谷元直ら重臣によって秘かに行われた会議によって、徳川家康と内通して西軍敗北時の毛利氏存続を図る方針が決定され、三成・恵瓊に不信感を抱く広家もこれに同意した。この時も秀元が西軍、広家が東軍につくことによって毛利氏の存続を図ることとなったのである。 だが、広家と秀元の連絡が上手く行かなかったことと、広家と重臣による根回しが不十分であったことから、関ヶ原での西軍敗戦後に、毛利氏は安芸ほか8か国で112万石から周防・長門の2か国29万8千石に大減封を受けることになった。このため、輝元が東の守りとして周防岩国3万石に吉川広家を置き、西の守りとして改めて長門長府6万石に毛利秀元を配置した。この際、改易処分を受けなかった秀元は長州藩の支藩という形式ながらも引き続き大名としての格を維持することになる。のちに長州藩は、幕府の了解を得て36万9千石に高直しを行ない、それに伴い岩国領も6万石に高直しされる。以後、豊臣政権で大名として認められていた長府毛利家は大名、認められていなかった岩国吉川氏は陪臣としての家格が固定されることとなった。これによって、長府毛利家と岩国吉川氏は毛利宗家を支えつつも互いには激しく競合していく関係へと変化していくことになる。
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豊臣政権期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 17:51 UTC 版)
天正16年(1588年)に長崎の代官となった鍋島直茂の職務は、物成などの収納・秀吉の御用物の購入・長崎およびその近隣地域の警備と海外貿易の取り締まりであった。 一方、村山等安は長崎の外町の統治を任されていた。秀吉に納める地子25貫以外は己の収入とし、貿易で得た利益を加えて莫大な資産を貯えた。
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