豊臣政権期以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 05:26 UTC 版)
天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原城攻撃で小田原征伐で北条氏が失墜し、宇都宮氏は下野国18万石の所領を維持した。国綱は1592年の朝鮮出兵にも参陣し、帰還後は豊臣姓を賜り従五位下に任じられたが、1597年、突然改易され備前国配流となり、1608年に江戸浅草の石浜で失意のうちに病死する。これにより、22代・500年に亘って繁栄した関東の名門・宇都宮氏は歴史の表舞台から去ることとなった。 改易の理由は、太閤検地の為に派遣された浅野長政に石高不正を訴えられたことや、浅野長政の次男・長重と宇都宮家の養子話のこじれがあった等と言われている。その後、関ヶ原の戦いで徳川家康率いる東軍に組するのを国綱が拒んだため、家名再興が認められなかったと言われてきたが、近年発見の史料によって、関ヶ原の戦い直前に国綱が家康に仕えていたことが確認され、また弟の芳賀高武が石田三成の家臣になっていたことも判明した。今日では国綱は東軍に組して関ヶ原の戦いに参戦しようとしたとみられるが、弟の芳賀高武・結城朝勝の働きかけで旧臣の多くが西軍に組して家康の会津征伐の妨害をしてしまったために戦功が認められず、豊臣政権崩壊後も家名の再興は認められなかったと考えられるようになっている。
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