豊臣方の準備とは? わかりやすく解説

豊臣方の準備

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:36 UTC 版)

大坂の陣」の記事における「豊臣方の準備」の解説

慶長19年1614年10月2日豊臣家では旧恩有る大名浪人飛ばし戦争準備着手した同日兵糧買い入れを行うとともに大坂にあった徳川家をはじめ諸大名蔵屋敷から蔵米接収した秀吉の遺した莫大な金銀用いて浪人衆を全国から集めて召抱えたが、諸大名には大坂城馳せ参じる者はなく、ただ福島正則蔵屋敷兵糧接収するのを黙認するとどまった。また籠城のための武器買い入れ総構修理建築なども行った。秀頼の援軍要請応じ大名がいなかったことについて、徳川方は秀頼が孤立したものとは見ておらず、島津家久(忠恒)からは人質取り黒田長政両名に対して重点的に馴致工作行い西国大名達に徳川秀忠に対して忠勤を誓う起請文を出させていたことが原因ではないかとする指摘がある。 集まった浪人併せ豊臣方の総兵力は約10万人で、明石全登後藤基次又兵衛)、真田信繁幸村)、長宗我部盛親毛利勝永五人衆のほかにも塙直之大谷吉治などがいた。彼らはいずれ関ヶ原の役後に御家取り潰しなどに遭い徳川家への復讐考える者、戦乱乗じて一旗上げようとする者、豊臣家再起を願う者、討ち覚悟豊臣家への忠義尽くす者など、それぞれの思想異なるが、歴戦の勇士多く士気旺盛だったが、いかんせん寄せ集めの衆に過ぎないため統制がなかなかとれず、実際戦闘では作戦乱れ生じる元ともなった豊臣軍内部二つ割れていた。まず、豊臣家宿老大野治長中心とする籠城派。二重の堀で囲われさらに巨大な惣堀防御設備固められ大坂城立て籠もり徳川軍疲弊させて有利な講和引き出そうという方針である。これに対し浪人衆の真田信繁は、まず畿内制圧し関東徳川西国諸大名遮断近江国瀬田川まで軍を進め、ここで関東から進軍してくる徳川軍迎え撃ち足止めしている間に諸大名味方につけ、その見込みが無いときに初めて城に立て籠もって戦う、二段構え作戦主張した後藤基次毛利勝永真田案を元に伊賀国大津北西にも兵を送り、敵を足止めすべしと主張して対立したが、結局大野治長豊臣家臣の案である、警戒連絡線確保するために周辺に砦を築きつつ、堅固な大坂城籠城する作戦採用された。 同月豊臣方淀川の堤を切って大坂一帯水没させ、大坂城浮城にしようとしたという。しかし幕府方本多忠政稲葉正成などにより阻止され被害行軍支障をきたす程度とどまった

※この「豊臣方の準備」の解説は、「大坂の陣」の解説の一部です。
「豊臣方の準備」を含む「大坂の陣」の記事については、「大坂の陣」の概要を参照ください。

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